中間宿主は何なのか、地方病と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。
この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。
中間宿主は何か
感染経路が皮膚であることが解明されたものの、土屋岩保には新たな疑問が浮かびました。
それは、糞便から排出された日本住血吸虫の卵がどのように発育し、再び人間や動物に感染するのかという謎です。
土屋は、便中の虫卵から孵化したミラシジウムと呼ばれる幼虫を用いて、ネコやネズミへの感染実験を行いましたが、感染は一切起こりませんでした。
ミラシジウムは孵化後、短時間で死滅し、哺乳動物に直接感染する能力がないことが明らかになったのです。
土屋はこの結果から、ミラシジウムが自然界で何らかの中間宿主を経由して感染力を持つ形態に成長する必要があるとの結論に達しました。
これを受け、山梨地方病研究部の後任技師となった宮川米次が、さらなる実験を行い、中間宿主の存在を証明することに尽力したのです。
宮川は、中巨摩郡池田村の貢川を実験地に選び、東京から連れてきたウサギやイヌを水に浸す実験を行いました。
その後、採血した動物の血液中に、ミラシジウムとは異なる形態の幼虫が確認されたのです。
これは、寄生虫が成虫になる前段階であるセルカリアでした。
この発見により、ミラシジウムが中間宿主を経てセルカリアへと成長し、皮膚から感染するというサイクルが明らかになったのです。
この成果は、日本住血吸虫の感染メカニズム解明において大きな一歩となり、中間宿主の重要性が確定しました。
土屋や宮川の研究は、日本住血吸虫症の予防と治療に向けた新たな視点を提供し、その後の対策に大きな影響を与えることになったのです。
犯人はミヤイリガイ
日本住血吸虫の中間宿主探しが始まったのは、1912年のことでした。
当時、新潟医科大学の川村麟也をはじめとする複数の研究者が有病地で暮らしているいろいろな生き物を採取し、検証を繰り返していたのです。
その過程で、西山梨郡住吉村に試験池が設置され、中巨摩郡西条村では杉浦健造が自宅兼診療所の敷地内に試験田を設けて、各種実験を行いました。
杉浦は、地方病発症地の用水路に広く分布する巻貝カワニナが中間宿主ではないかと考えました。
また、杉山なかの解剖に携わった吉岡順作もカワニナが中間宿主である可能性を感じ、土屋岩保と協力して実験を重ねたのです。
しかし、これらの実験では中間宿主の特定には至りませんでした。
中間宿主が確定されたのは翌年、1913年の夏です。
九州帝国大学(現在の九州大学)の宮入慶之助が、佐賀県で体長8ミリほどの淡水産巻貝を見つけ、その巻貝が日本住血吸虫の中間宿主であることを証明しました。
彼らは「有毒溝渠」と呼ばれる溝渠でこの小さな巻貝を見つけ、実験を重ねた結果、虫卵から孵化したミラシジウムが体内で変態・分裂し、最終的にセルカリアへと成長することを確認したのです。
この結果は同年9月に『日本住血吸虫の発育に関する追加』として東京医事新誌に報告され、大きな反響を呼びました。
しかし、問題はこの貝の種の特定でした。
もしこの貝が日本全国に分布するものであれば、他の地域でも同じリスクが存在する可能性があります。
複数の研究者がモノクロ写真を見てカワニナを疑いましたが、螺層(巻貝の螺旋の数)が異なることから、これは新種の貝であることが判明しました。
この新種はRobsonによってKatayama nosophraと命名されましたが、後に中国産の巻貝Oncomelania hupensisが同属であることが分かり、名称はOncomelania nosophoraに変更されたのです。
この中間宿主の発見は、日本住血吸虫の感染メカニズムを理解する上で非常に重要でした。
なぜなら、ミヤイリガイ以外には寄生できないことが分かれば、理論上、この貝を駆除することで日本住血吸虫の生活環を断ち、病気の発生を防ぐことができるからです。
さらに、この貝が特定地域にしか生息しないため、なぜこの奇病が特定地域にのみ流行するのか、その理由も明らかになりました。
この発見は、日本国外の寄生虫学者にも多大な影響を与えました。
1915年にはビルハルツ住血吸虫やマンソン住血吸虫の中間宿主がエジプトや他の地域で特定され、宮入の発見が寄生虫学の基礎となったことを示しています。
このように、ミヤイリガイの発見は、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持つものでした。