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「広報解禁って、意味がある?」繰り返された就活時期論争の歴史~新・就活温故知新・1

石渡嶺司大学ジャーナリスト
就活時期論争がなぜ続くのか、専門家が解説(提供:イメージマート)

◆政府の就活ルールが総スルーされる理由

ネット記事は短い方がいいのに、無視して1万字以上、鬱陶しいくらい、詳細にまとめようシリーズ、今回は就活時期論争についてです。

「100年乗っても大丈夫」とは稲葉製作所の物置CMにおける名セリフです。これを拝借すると、「100年経っても変わらない」のが就活時期論争です。

3年生3月に就活は広報解禁を迎えました。これは政府の就活ルールによるものです。

ところが、この就活ルール、きちんと守っているのは、ごく少数の企業しかありません。多くの企業、多くの学生、多くの大学からはスルーされています。

その理由は、就活時期論争の歴史を振り返りつつ、ご説明します。

1万字以上、読むのが面倒という方のために、100字でまとめると、

「法律も罰則も存在しないし、作れもしない。自主的ルールに落ち着くので建付け自体に無理がある。「規制しようとしては破綻」を100年前から堂々巡り。正直者が馬鹿を見るだけだが、と言って、なければないで不自由も。」

となります。

今後も就活時期論争は不毛な議論を今後も続けるでしょう。

以上。

という結論になぜなるのか、お時間のある方は本稿をどうぞ。

◆戦前(選考開始:4年生11月→卒業後→4年生1月→4年生11月)

 日本に大卒採用が定着したのは大正時代です。当初、選考開始時期は大学卒業後でした。

 ところが、第一次世界大戦で日本は大戦景気となり、学生の売り手市場となります。そこで景況感の高まった1915年前後には早くも卒業後という慣習が変わりました。

1920年代には4年生11月ごろに選考開始、というスケジュールが定着します。4年生11月なら十分遅いと今なら思うのですが、当時はこれでも早すぎると問題になっていました。

『就職戦術』(1929年、寿木孝哉、先進社)によると、

「学生は学校卒業期になると就職運動にばかり狂奔して遂にその学業を捨てて顧みないといふ風を生じ、これがために卒業年度に於ける成績が、1年、2年当時に比して著しく悪いと云ふ傾向を示し」

 とあります。

そこで、1928年、日本銀行、三菱銀行など有力銀行頭取の団体である常磐会例会は選考時期の検討を開始。常磐会メンバーの銀行のほか、三菱合資、三菱銀行、三井物産、日本郵船、大阪商船など18社の連名で選考を卒業後とする協定を発表しました。

の協定は1929年卒業生から1934年卒業生まで一応適用され、別名を六社協定とも言います。18社参加なのに、「六社協定」という呼び名になった理由は後ほど。

この就職協定は主要企業の呼びかけで罰則はないとはいえ、多くの企業が同調。文部省や主要大学も承認し、官庁も文部省の強い要請により卒業後採用に移行します。

時期は色々議論されたらしく、卒業前・4年生11月選考開始を推す社もあったようです。

しかし、「学生の修学上其他に於いて種々弊害を伴ふのみならず採用者側としても時多くは歳末繁忙期に際し時期を得ざる次第」として卒業後選考に落ち着いたようです。

ここで注目したいのは「修学上の弊害」が理由となっていること。就職協定は最初のものから、学業が理由となっていたことが明らかになりました。

当時は現代以上に大学での学力が問われ(成績については賛否両論ですが)学力試験も課されていたので無理からぬところ。

もっとも、学業云々は単なる建前で「歳末繁忙期に際し時期を得ざる次第」が本音のような気もします。

初の就職協定が適用される1929年卒業生は大戦景気など過去のもの、金融恐慌(1927年)の余波で採用企業側が有利となる、買い手市場となっていました。

◆就職協定崩壊で「内定」が定着

学生不利・採用企業有利の環境、文部省・大学の承認と条件が揃い、協定は守られるかに見えました。しかし実際には協定1年目から崩れます。

まず、学生は環境が悪い分、早く動こうとします。

「今年卒業の学生は就職難の不安が二カ月延長されただけで不安が増大し、学校当局もこれを見捨てておくわけにも行かないので『協定の趣旨尊重』を内々破って協定以外の会社に向かつては卒業前の就職運動を始めかけた向もあり、就職難不安の時潮は『卒業後選考協定』最初の試みを裏面では押し倒そうとしてゐる」(東京朝日新聞1929年1月18日)。

協定1年目の1929年はまだそれでも遵守した企業が多く、協定に入っていない社でも3月ごろに選考と時期を遅らせました。

付言しますと、この協定では卒業後に採用、としていました。

そこで、卒業前に実質的に採用を決定することを「内定」と呼ばれるようになります。

以降、100年後の現在もこの内定は就活用語として定着しています。

話を100年前に戻すと、この内定が就職協定を崩壊させます。2年目(1930年卒業生)には早くも協定を呼びかけたはずの18社から協定を無視して内定が出ます。

 3年目(1931年卒業生)についてはこんな記事が。

「例の『卒業後採用の申合せ』の方針に準じて決定を留保し単に内定を伝へるだけのところが多い。ために内定者は何とない不安に駆られて更に各方面へ履歴書を提供するのでただでさへ繁雑な事務室の手数を倍加してゐるばかりでなく、もしその内定者が別方面へ再び採用された折りにはいずれか一方の就職口が無駄なのだから、就職希望の学生にとってもこの内定といふことは甚だ迷惑なわけである」(帝国大学新聞1931年3月2日)。

◆「制裁規定が作れない」

1933年卒業生はさらに好転、「インフレ就職」ともいわれるくらいの売り手市場に変わりました。こうなると就職協定など守られるわけがありません。結局、1935年卒業生に適用されたあと、廃止となります。

以降、4年生11月ないし1月(当時、卒業試験は2月か3月でした)ごろに選考が実施されるようになります。卒業選考だった官庁も競合する民間企業に先を越されては、と1938年(1939年卒業生)から4年生11月選考に前倒しとなりました。

なお、六社協定の名前の由来は最後まで協定を締結していたのが、日本銀行など六社だったことから。そのうちの一社、安田保善社はこんなコメントを残しています。

「六社協定に代わる理想案として日本全部の一流中流会社を網羅する事も考へられるが何分こんな協定は違反に対する制裁規定が作られないので現実的には如何ともし難い」(帝国大学新聞、1935年9月23日)

罰則がないと誰も守らない難しさは就職協定第一号からすでに露呈していました。

そして、「制裁規定が作れない」との安田保善社の嘆きは、その後、100年間続く就活時期論争でも同じ結論に行きついてしまいます。

◆1946年~1952年(選考開始:4年生卒業式前)

戦中から1947年までは戦時下の非常事態、ということもあり卒業時期が3月から9月に繰り上げになっていました。

その影響もあって、1946~1947年は秋卒業という変則スケジュールだったのですが、復興景気や役職者パージで採用意欲は強かったようです。この影響で卒業後採用だったものが卒業式前に選考し入社する、というスケジュールが定着。それがその後も継続することになります。1948年卒業生から3月卒業に戻りますが、選考時期は4年生の10~11月ごろで定着したようです。

これでは早すぎる、との批判が出たのか、1952年6月、文部省・労働省の両省次官名で通達が出されました。これが戦後最初の就活協定です。

「4年生1月選考開始」「選考後はすぐ採否を決定」「使用開始(見習い期間などを含む)は卒業後」の3点がポイント。

就職協定が戦後すぐ、ではなく、1952年に出たのは理由があります。当時、景気は頭打ち状態でした。そして、1953年春は旧制大学最後の卒業生と新制大学最初の卒業生が同時に出ることになっていました。企業からすれば旧制大学の方が優秀とみていたため、新制大学卒業生は就職できない一方、旧制大学生に対しては採用活動がより早くなる、と予想されていました。そこで就職協定を、との話になります。

当時、三島良兼・文部省大学学術局学生課長補佐は「学生の向学心を阻害し、さらに大学における教育計画自体を混乱させ、ひいては求人側にも不利をもたらすことを考慮」(『職業指導』1952年10月号)した結果、選考時期を調整したと専門雑誌に寄稿しています。

この記事の中には「時期の統一は極めて無理な注文と思われるが」とも書いていますが、実際に無理な注文であり、戦後初の就職協定は全く相手にされませんでした。4年生1月選考を要請していても大手企業の大半は4年生9月に受付を終了。10月に選考が集中します。中には卒業前から就職させたり、6~7月ごろに選考を終える企業もありました。

あまりにも相手にされなかったのか、各種文献を見ていると戦後初の就職協定は1952年ではなく1953年開始となっているものが多くありました。

◆1953年~1962年(選考開始:4年生10月→4年生夏前)

4年生1月選考開始が全く相手にされなかった文部省は1953年6月、日経連、大学の代表などを集め学生就職懇談会を開催。「4年生10月中旬から一か月くらい」で選考することを決めます。以降、就職協定はこの原型「4年生秋ごろに選考」をそのまま踏襲していきます。

前年同様、就職協定の実務を担当した文部省の三島良兼は1953年10月号の『職業研究』でこの就職協定や懇談会についても触れています。笑える、もとい、注目したいのは懇談会の内容です。

「(選考)時期については、文部省が示した十月一日以降の線を守る。ただし、人事院の公務員採用試験だけが、八月下旬に実施されるのは困るからやめてほしい」

「すべての大学に就職の門戸を開放してほしい。中央と地方、国立と私立などといった差別をつけないようにしてほしい」

「今後とも、中小企業方面に就職分野を開拓する必要があるがそのためには、就職希望学生にしつかりした職業観を持たせるように指導しなければならない」

公務員と民間企業の採用時期の調整、大学間格差、企業間格差がすでに問題になっていました。いずれも、現代に継承されることになります。

4年生1月選考よりはまだ実現性のありそうだった4年生10月選考の就職協定ですが、景気がよくなると、またもあっさりと崩壊していきます。

1957年5月の懇談会で文部省は「推薦10月5日以降、試験10日以降」の新協定をまとめようとしました。これに反発したのが大学、それも私大です。

私大の団体である私大連盟は懇談会をボイコットしました。時期の繰り下げは私大にとって就職先確保のチャンスを失いかねない問題でした。結局、「推薦10月1日、試験10日以降」で落ち着きますが、守る企業、大学、学生がどれだけいたかはいうまでもありません。

読売新聞1962年4月19日朝刊記事には「もう来年の求人合戦 多いもぐり試験」との見出しで就活状況を解説しています。

同記事によると1961年に協定を破った企業は文系55%、理系71%。「一部企業はすでに来年卒業見込み者にたいし、ひそかに選考試験をはじめ」とあります。

そのため、日経連は協定から降りようとします。企業の採用担当者としては、協定があるのでまだ歯止めがかかっており、なくなれば困ります。「じゃあ、協定を守るのか?」「いや、他社に負けるわけには…」といたちごっこ。

1962年4月22日朝日新聞朝刊には「卒業生の『青田買い』を排す」との社説が掲載されます。タイトル通りの内容なのですが、皮肉にも社説の訴えとは裏腹に青田買いが進行します。さらに皮肉なことに、この「青田買い」という言葉が定着するだけの結果となりました。

◆1963年~1971年(選考開始:3年生冬~4年生春)

「青田買い」が定着するほど、就活は早期化。当時は好景気で学生の売り手市場でした。

「会社の重役たちが出身の大学に出かけ、それとなくPRの一席をぶったあと、希望の学生に会社や工場を見学させる。ある程度人数をしぼったところで個人あてに受験日を指定する手口等々。ホテルに案内したり、キャバレーに学生を案内するデラックス版もあるとか。また、これでは手ぬるいと大手会社の中には在学中から奨学金を支給してヒモをつけておくケースも最近流行のキザシあり」(読売新聞1962年5月10日夕刊)

やっていることはバブル時代とそう変わりません。あまりにもひどく手に負えない、と考えたのでしょう。

1962年、日経連は「就職協定野放し宣言」を出して就職協定から離脱します。

後述しますが、2018年、経団連(2002年に日経連を統合)が就活ルール廃止を言い出すのと、酷似しています。

「就職協定野放し宣言」を受けて文部省は4年生秋選考を経済団体、企業に申し入れますが相手にされません。何しろ、法的根拠がない以上、相手にされるわけがありません。

それに当の大学自体も協定を無視して学生を送り込みます。

結果、内定時期は1963年は4年生6月、1964年は4年生5月、1966年は3年生2~3月、1971年には1~2月と早期化が進みます。

そう、実は2023年からさかのぼること、50年以上前は、コロナ禍以降とほぼ同じ就活時期だったのです。

青田買いどころか、早苗買いに種もみ買い。

 読売新聞1970年5月27日夕刊には「苗代ならぬ種モミ買い」との記事で東大生が3年生になって半年ほど経過(当時、学生運動の余波なのか、3年生進級が1969年12月、卒業は1971年6月以降)なのに「法、経済両学部などはすでに決定率100%とのうわさ」と報じています。

◆1972年~1980年(選考開始:4年生夏)

あまりにも早期化が進みすぎたのか、1972年、日経連を含む中央雇用対策協議会は「会社訪問5月1日、採用選考7月1日解禁」を決定。ようやく就職協定が復活します。

1973年にはオイルショックが発生、その後、日本は好景気から一転、不景気となります。内定取り消しも相次ぎ、就職率も低下しました。

好不況に関係なく安定した雇用原則を、との声が高まっていきます。

その結果、1975年は「9月1日求人活動解禁、10月1日就職試験解禁」、1976年は「求人活動10月1日、就職試験11月1日」と後ろ倒しになっていきます。

ただし、石油ショックによる不景気から回復すると、またも早期化が進み、4年生夏前後の就活時期が定着します。

◆就職協定から労働省が離脱した意味

1981年、就活史上、大きなターニングポイントがありました。

就職協定を定めていた、中央雇用対策協議会からの脱退を労働省(現・厚生労働省)が表明します。

「協定破りの責任は企業、大学双方にある。行政が監視を強化すればするだけ、協定と現実のギャップは拡大する」「行政が協定に関与し続けることは行政の公平性を失いかねない」と関英夫・労働省職業安定局長は中央雇用対策協議会でコメントし、監視役放棄を宣言しました。

大学や文部省、中小企業中心の日本商工会議所などは労働省を批判ないし引き止めをしますが、日経連は引き止めません。結局、大学と産業界による紳士協定として就職協定は存続することになります。

現在でも労働省の監視役撤退が無責任と批判することは可能です。

しかし、当時、監視役と言っても違反事実の把握は「学生や父兄からの電話だけが頼り」(日本経済新聞1982年1月10日朝刊)。いくら労働省が「全国の大学の(就職)担当教授に協定順守の協力要請文を送ったり、大手企業約百五十社の人事部(課)長を同省幹部や直接訪問して順守のお願いをして回った」(前記事)と言っても全く効力なし。

そもそも、「労働省でさえ『予定数はほぼ固まった』と自らの違反を認めるほどだ」(日本経済新聞1979年10月27日朝刊)との皮肉な記事が出るほど、無意味なものとなっていました。

これ、冷静に考えれば、よくもまあ、国・労働省の責任が問われなかったものです。

例えば、いじめ問題やカルト宗教問題で文部科学省が「そんなの個人間の問題だし、うちは何も対策を取りません」と言い切ったも同然の話です。

背景には行政改革がありました。1981年当時は、第二次臨時行政調査会長に土光敏夫が就任。行政改革を進めている最中でした。この行政改革は1983年に答申が出て、三公社民営化(国鉄・専売公社・電電公社)が実現します。

行政改革がホットな話題だった当時、人員を増やしてまでやることではないとの雰囲気がありました。

結果的に労働省の責任を追及する意見は特に出ないまま、現在に至っています。

この労働省の就職協定離脱は、後述しますが、被害者は誰なのか、取り締まり者は誰なのか、という私の問いかけが古くからあったことを示しています。

結局のところ、被害者はほぼ存在しない、法律制定も無理、取り締まりも無理。

これを国・労働省が事実上、認めたからこその就職協定離脱でしょう。

そして、それを野党も、もっと言えば世論の大勢も事実上、認めたからこそ、就職協定離脱がなんら問題にならなかったのではないでしょうか。

実際に、当時の最大野党である日本社会党の政党雑誌『月刊社会党』(日本社会党中央本部機関紙局)1982年2月号には「日誌・内外の動き」で労働省の見解をわずか5行でまとめています。野党側もほとんど問題にしなかったことが明らかです。

◆1981年~1996年(選考開始:4年生夏)

国・労働省が就職協定を離脱した1981年以降、就職協定の取りまとめをしたのは経団連でした。

この就職協定が1996年まで細かい変遷をしつつ、存続します。

1986年以降について一応、細かく書いていくと、次のような変遷があります。

1986年:8月20日会社訪問開始、11月1日選考開始

1987年~1988年:8月20日会社説明開始、9月5日会社訪問開始、10月15日採用内定開始

1989年~1990年:8月20日会社訪問開始、10月1日採用内定開始

1991年~1996年:8月1日会社訪問開始、10月1日採用内定開始

バブル時代の1980年代後半から1990年代前半は学生の売り手市場でした。企業からすれば、就職協定などかまっていられません。

そして、このあいだ、何度となく就職協定の廃止論が経団連から見え隠れするようになります。

◆1997年~2002年(選考開始:3年生秋~冬)

1980年代半ばごろから出ては消えていた就活協定廃止論は1996年、一気に動きます。経団連が就職協定廃止を決めました。

大学側は存続を要請し続けますが結果、押し切られてしまいます。

『ぱとろなとうきょう』(東京経営者協会・編/同協会の会報)の1997年春号で日経連・関東経協教育部次長(鈴木正人)は「就職協定の廃止が意味するもの」として、次の点を挙げています。

「通年採用の拡大やインターネット募集等にみられる採用形態の著しい変化など、現行協定の枠組みのできた10年前とはあらゆる面で社会環境が変わったこと、また教育の根源は正しい人間形成にあるにもかかわらず、社会へ第一歩を踏み出す段階で学生に本音と建前を使い分けることへの疑問等さまざまである」

『婦人公論』1997年5月号の田原総一朗司会の座談会記事では経団連教育部長が就職協定をなくした効用を説明します。

「企業側もこれまでは二十分、三十分ぐらいの面接で採用を決定しなければならなかったのですが、今度は時間をかけて人材を選べる。大学名に縛られずに、学習歴とか、ボランティア歴、スポーツ歴などを評価に入れながら、学生個人の実力をみて採用できるわけです」

とコメントしています。これがどれくらいの真実か嘘かはあえてここでは触れないでおきます。日経連はこの就職協定廃止と同時に「新規学卒者採用・選考に関する企業の倫理憲章」、通称「倫理憲章」を公表しました。

この中では、内定解禁は従来と同じく、4年生10月1日以降としています。それ以外では情報公開や学事日程の尊重など、前記の鈴木の「本音と建前を使い分けることへの疑問」はどこへやら。

◆2003年~2010年(選考開始:4年生4月)

倫理憲章は2002年、2004年卒対象のもので大学院生の早期選考自粛を盛り込みました。

その後、2003年に日本経団連加盟企業を対象にした「倫理憲章」という名の就職協定が復活したのはご承知の通りです。

「不況下で採用抑制の動きが進む一方で、理科系の大学院生の「青田買い」が進んでいるため」(読売新聞2002年10月17日朝刊「大学院生の早期採用自粛を呼びかけ 日本経団連の倫理憲章」)、ですが、例によって自粛なのでほぼ意味がありません。

翌年、2003年には2005年卒対象の「倫理憲章」が出ます。この中で「卒業学年に達しない学生に対して、面接など実質的な選考活動を行うことは厳に慎む」という一文が追加されました。要するに、大学4年生の前は選考をするな、ということです。

さらに、経団連は加盟企業1280社に対して「倫理憲章」に対する賛同書を送付。賛同・署名した企業を公表しました。その数、約半数となる630社。

この署名企業の公表は早期化の食い止めに一定の効果が出ました。2003年秋~2004年春には就活関連記事の中でも、効果を認める内容が複数、確認することができます。

業界としては、外資系を除いて軒並み署名の方向で動いた。結局、このメーカーも署名をした。面接開始から内定までのスケジュールは1カ月、後にずらした。採用担当者は嘆く。

「せっかく昨年より余裕をもってやろうと思っていたのに。これですべてパーですよ」

※「AERA」2004年3月22日号「就職 第21回 復活『就職協定』、混乱の採用計画」より/文中の「業界」は記事に登場する化学関連業界を指す

この年は署名しなかった企業も翌年は署名することになります。

これで早期化に歯止めがかかったまま、現在に至る…わけではありません。2006年ごろから、その効果は薄れていきます。理由は簡単で、売り手市場に転じたからです。

新たな「倫理憲章」が出た2003年は、戦後史上最低の就職率(文部科学省「学校基本調査」における「卒業者に占める就職者の割合」)55.1%を記録した年です。

文字通り「就職氷河期」だった年でした。

逆に企業からすれば、余裕を持つことができます。

ところが2005年から就職状況が改善していきます。そうなると、内定を取れる学生には集中し、内定辞退や補充選考が大幅に増えていきます。

(倫理憲章は)“就職氷河期”であった当時は、採用担当者にとって問題にはならなかった。

だが、〇五年に就職氷河期が終わりを迎えると事態が一変した。選考期間が限られるため、面接などの日程が重なる事態が急増。企業側は人材を確保するため二次募集をし、さらに夏・秋の採用活動も行なわなければならなくなった。

すると学生は、内定を持ちながら別の会社を受験できるようになり、重複内定者が増加。最終的には「内定辞退の増加」という採用担当者にとって最悪の結果を招いたのである。

※「週刊ダイヤモンド」2006年2月11日号「特集 2007年採用 就職に勝つ!ゼミナール 大学三年生が選ぶ就職人気企業ランキング」より

結局、倫理憲章は形だけのものとなり、4年生4月より前に選考を実施する、いわゆる早期化が定着します。

◆「おせっかい」連合体の暗躍で後ろ倒しに

2010年ごろまでは「3年10月広報解禁・選考は3年生2月以降」が主流となります。

ところが、この就活時期が2010年代に迷走します。

この迷走には複数の要因が絡み合った背景がありました。

まず、売り手市場になっていた就活状況が2008年のアメリカでのリーマンショックで大きく変わります。事態が大きくなるにつれて日本を含む世界経済にも大きな影響を与えました。

日本では売り手市場ムードが雲散霧消、それどころか、内定取り消しが相次ぎ、2008年10月以降は内定取り消し問題が各メディアでも注目されるようになったのです。

当然ながら、就職率は下落していきます。2010年には就職率が60.8%と2003年の最低値に近いところまで落ち込みました。

2008年には、内定取り消しが相次ぎ、就活が社会問題として大きく注目されるようになりました。

2011年には3月に東日本大震災が発生、結果的に選考が大きく後ろ倒しとなります。

政治でも大きな変化がありました。2009年総選挙で民主党が圧勝、政権が交代します。ところが民主党政権は迷走し、鳩山由紀夫(2009年~2010年)、菅直人(2010年~2011年)、野田佳彦(2011年~2012年)と首相が毎年のように変わります。

2011年ごろには次の総選挙では自民党が勝ち、再度、政権交代が起きる、と言われていました。実際、2012年の総選挙で自民党が圧勝、再び政権交代が起きています。

こうした、複雑な渦がある中、2010年10月に高木義明・文部科学相が日本商工会議所と経団連を訪問、就活の早期化の歯止めを訴えます。

企業側も、大手総合商社が中心となる日本貿易会は海外留学が減っている一因が就活の早期化にある、として、2010年11月に4カ月遅らせて4年生夏以降の選考解禁を求めます。

全国銀行協会などは慎重姿勢を示すものの、2011年1月、経団連は折衷案として、2013年卒から広報解禁を2カ月後ろ倒しにした「3年生12月広報解禁・4年生4月選考解禁」を「倫理憲章」に盛り込みます。

これで落ち着くか、と思いきや、後ろ倒し議論は収まりません。

政権交代が起き第二次安倍内閣が成立した翌年、2013年に「若者・女性活躍推進フォーラム」の第2回会合が開かれました。

ここで、日本貿易会・常務理事から後ろ倒し案が出て、ほぼ賛成一色になります。

現状の説明があった後、商社の業界団体である日本貿易会の常務理事(当時、以下同)で伊藤忠商事出身の市村泰男氏が「後ろ倒し」を求めた。

「きちんとした形で学生を育てるということを考えますと(中略)、就職というのは4年生からやるべきではないか」

自民党青年局長の小泉進次郎氏も、後ろ倒しに賛意を示し、「夏の時期ぐらいまで後ろに倒してもいいと思います」

と時期に言及。私学事業団理事長で関西大学長なども歴任した河田悌一氏はより具体的に、

「企業の就活の広報活動をぜひ、4年生の4月以降にしていただきたい。採用選考の活動は4年生の8月、夏休み以後に」

と踏み込んだ。その後、文科政務官の丹羽秀樹氏が、

「最後は政治判断で(後ろ倒しを)やることも可能」

と発言。

※「AERA」2015年11月16日号「迷走の元凶は『政治判断』『若者と女性の活躍』掲げる安倍政権が就活『後ろ倒し』の旗振り役」より

なお、この会議には与党・公明党も出席、やはり、後ろ倒しに賛成しています。

公明党の谷合正明青年委員長(参院議員)が出席した。

谷合氏は、大学生の就活について、授業時間の確保や費用負担軽減の観点から、就活の早期化・長期化は是正すべきとし、「4年生からの開始を原則にしてはどうか」と提案。また、希望する学生全員が一度は留学を経験できる環境の整備や、中小企業とのミスマッチ解消を進める必要があると訴えた。

※公明新聞2013年3月16日号「就活長期化の是正提案/政府のフォーラムで谷合氏」

この会議では、経団連の川本裕康・常務理事だけが難色を示します。

「遅い期日だったときに、フライングだらけになって守られなくなったのです。(中略)ただ期日だけをずらしても、結局は、就職が決まらないで卒業する学生がふえてしまうことを危惧しております」

※前記「AERA」記事より

しかし、難色を示したのは川本氏一人だけだったようで、同年4月には安倍晋三首相が経団連を含む経済3団体に後ろ倒しを要請、2016年卒(年度表記だと2015年度卒)から「3月広報解禁・4年生8月選考解禁」が決まりました。

産官学「おせっかい連合体」でこれで就活時期が定着するし、学業も阻害されない、と思いきや、この新日程は企業、大学、そして学生の三者から大不評となりました。

学生からすれば、留学から帰国しても就活には間に合います。一方、理工系の学生は卒業研究の山場となるのが4年生夏、当然ながら就活とバッティングしてしまいます。

文系の学生にとっても、「暑い中、なんで就活なのか」と不満を持ちます。

就職情報会社マイナビが8月に行った調査では、長期化による学業の妨げなど「マイナスの影響が出た」と答えた学生は79%を占めた。

※読売新聞2015年11月10日朝刊「[スキャナー]就活 甘い実態把握 選考日程 また変更」

大学もこうした学生の不満を受けて、「8月選考解禁」反対に傾きます。

企業も、中小企業を中心に弊害が出ました。

後ろ倒しによって選考期間が短くなり、十分な採用活動ができないことを懸念した企業は学生とのさらなる早期接触を狙い、大学3年生向けサマーインターンシップが急増した。リクルーターを使ったり、面接を「ジョブマッチング」などと言い換えたりする企業のフライングも横行した。

※前記「AERA」記事より

このあおりで、中小企業はせっかく内定を出しても、辞退され、その分、採用の手間がかかってしまいます。

大手企業が8月に内定を出す一方で、非会員の中小企業は例年通りに春先から活動を展開。大手企業の内定を得た学生が、先に内定していた中小企業への入社を断る事態が相次いだ。

中国地方でも採用活動を延長する企業が目立った。競技用ボールや医療福祉機器など製造のモルテン(広島市西区)は9月、いったん7月に終えた採用活動を再開。8月に数人が内定を辞退したためだった。就職情報会社や経済団体が春から夏に開く合同就職説明会も、企業からの要請に応える形で11、12月に続々と追加開催された。

※中国新聞2015年12月19日朝刊「地域経済2015 <2> 大卒採用の日程変更 学生確保に中小が苦慮」

産官学「おせっかい連合体」が、今度は産学学生「どうにかしろよ」同盟に逆襲を受けます。結局、2015年10月、中小企業が中心の日本商工会議所が2カ月前倒しを提言、経団連もこれを受けて、2017年卒から「3年3月広報解禁・4年6月選考解禁」が決まります。

◆政治色の薄さと「やってる」感が元凶?

2年連続の就活時期変更、一義的には、2013年に後ろ倒しを要請した安倍晋三首相と後押しした与党や大学団体などの責任は重いでしょう。

実際、そうした論調の記事は多くあります。

前に引用した「AERA」2015年11月16日号は記事タイトル(「迷走の元凶は『政治判断』『若者と女性の活躍』掲げる安倍政権が就活『後ろ倒し』の旗振り役」)からして、安倍政権批判をしています。

読売新聞記事(2015年11月10日朝刊「[スキャナー]就活 甘い実態把握 選考日程 また変更」)も、「AERA」ほどでないにしても、政府決定に批判的です。

文化放送キャリアパートナーズ就職情報研究所研究員の平野恵子さんは「経済団体は『政府の要請に従った』、政府は『大学からの要望だった』、大学は『企業が解禁を守らなかった』と言う。誰も責任をとろうとしなかった」と批判する。

政府、大学、経済団体による議論が熟さないまま、政府が繰り下げ方針を13年に閣議決定したことが影を落としたとの見方が多い。

※前記読売新聞記事より

私は自民党支持でも不支持でもないのですが、安倍政権の責任だけではないだろう、と考えています。

後ろ倒し自体は、前記のように民主党政権だった2010年にも、当時の文部科学大臣が提唱しています。

この就活時期論争、政治色がほぼありません。しかも、後述しますが、被害者・加害者が曖昧です。逆に言えば、「学生は被害者」「学業が阻害されている」などと断じやすく、いうなれば「やってる」感を出しやすい、という特徴もあります。

いずれにしても、「やってる感」で2010年代は3回も就活時期が変わることになってしまいました。

◆2018年、経団連が3回目の「卒業」

2018年9月、中西宏明・経団連会長は定例記者会見で2021年卒から採用選考に関連する指針策定の取りやめを表明します。

日本商工会議所は「何らかのルールは必要」と表明するものの、結局、政府が仕切り役となって採用時期など就活ルールを策定することで落ち着きます。

背景には、日立製作所会長だった中西会長がグローバル化に対応すべく、採用自由化の地ならしとして指針策定取りやめを進めた、と言われています。

政府の就活ルールは、基本的には経団連の指針を引き継ぐものでした。そのため、2021年卒以降も、2023年3月現在、「3年生3月広報解禁・4年生6月選考解禁」という基本線は変わっていません。

ところで、この鬱陶しい本稿を読んでくれた方はお気付きかもしれません。経団連の就活時期策定からの「卒業」は日経連時代も含めると3回目となります。

日経連時代には1962年に「野放し宣言」、1996年の就職協定廃止、そして、2018年の指針策定降板です。

時代背景などの違いがあるにせよ、基本的な「手に負えないから降りる」は同じです。

◆「先祖返り」とインターン規制で混乱の2020年代

政府による就活ルール策定で、結果的には早期化が進行する、先祖返りとなります。

さらに、2020年、コロナ禍の中で経団連と大学などの協議会が1日インターンシップの「廃止」を決めます。

学生らの就職活動と大学・大学院での教育のあり方を話し合う大学と経団連の協議会が31日、1日だけの就業体験「ワンデーインターンシップ」を認めないことにした。授業のある平日が採用活動に使われているとの批判が強く、就職情報会社の団体も認めないと宣言している。

※朝日新聞2020年4月1日朝刊「1日インターン廃止 新型コロナ対応で採用機会増も要請 大学・経団連」

この結果、就職情報サイトからは「1日インターンシップ」の記載が消えました。

が、企業も学生も、早期のセミナーやインターンシップは1日で十分、と考えるのが本音です。

そこで、就職情報サイトにエントリー(ブックマーク)するだけでは終わらなくなってしまいました。エントリー(ブックマーク)した就活生に対して企業は、LINEや自社の採用サイト、就職情報サイトの企業マイページなどへの登録を促す、「2度手間」を求めるようになったのです。

就活生からすれば、面倒がって、「2度手間」をかけたがりません。ところが、少数の「2度手間」をかけた就活生に対して、企業は1日インターンシップや早期セミナー・選考の情報を流すわけです。

このあたりの事情を2022年6月13日にYahoo!ニュース個人記事「就活サイトで二度手間フィルターが定着~先輩就活生が後輩に教えたい『就活のワナ』」にまとめました(この記事はヤフトピ入り)。

中国やベトナムのことわざに「上に政策あれば、下に対策あり」というものがあります。1日インターンシップの「廃止」は、このことわざ通りとなりました。

いくら、経団連や大学が「廃止した、あんなものはニセモノだ」と言ったところで、企業からすれば「就職情報サイトに掲載しなければいいんでしょ」で終わりです。

この自称「1日インターンは廃止」の結果、就活時期はより早期化、かつ、就活生によっても異なる分割化(通年採用)が進行することとなりました。

日本の雇用慣行を示すキーワードとして「新卒一括採用」があります。採用時期などが同一だから「一括」となっています。

ですが、2020年代以降は「新卒『多様化』採用」の時代に入っている、と言っていいでしょう。

◆就活時期による被害者って誰?

さて、ここまで就活時期論争の歴史について振り返りました。今後、この就活時期は表面上はともかく、実質は「大学3年生秋ごろに広報解禁」「大学3年秋~冬から大学4年6月にかけて選考」「就活生や企業によって時期がバラバラ、かつ、複数の選考(採用)時期に分かれる」形で推移していく見込みです。

それで、どこかのタイミングで時期論争が起きることもあるのでしょう。

そこで、改めて、論点を整理したく思います。すなわち、「就活時期(就活の早期化)による被害者は誰か」。

日本は戦前も戦後も現在も法治国家です。大体のことは法律で規定されており、これは就活も例外ではありません。

企業側が内定取り消しをすれば、労働雇用法に抵触する可能性がありますし、面接担当者が就活セクハラに及べば、強制わいせつ罪、名誉棄損罪などに該当することになります。

では、就活時期についてはどうでしょうか。突き詰めて考えれば、面接などの選考は成人者同士が合意のうえで面会しているだけのことです。これを規制する、ということであれば、日本国憲法第21条に抵触します。

日本国憲法第二十一条

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

就活時期をどうしても法律で規制する、ということであれば、この憲法第21条を改正する必要があります。

たかが就活で憲法改正?バカバカしいにもほどがある?いや、私も全く同感です。

しかしですね、就活時期を法律で規制することは、成人同士が合意の上で話しているだけのことを規制することと同一です。

だったら、憲法改正しかないでしょう。

そもそも、一方が会いたくないのに強要しているのであれば、強要罪などが成立する可能性が高いです。ところが、就活は企業・学生が合意のうえに成り立っています。つまり、就活時期の是非については被害者がほぼ存在しません。

にもかかわらず、憲法を改正する意義などあるのでしょうか。

私は全くないと思います。

◆「学業の阻害」って、教育関係者の感想ですよね?

ここで、大学関係者(の一部)は「学業の阻害」を理由に挙げられるでしょう。

実際、就活時期論争が盛り上がるたびに、「学業の阻害」を就活がしている、とやり玉に挙げられます。いわゆる「学業阻害」論です。

毎日新聞2011年2月21日朝刊の社説ではタイトルが「社説:採用時期見直し 学生たちを教室に戻せ」とストレートに出しています。

この主張は大学など教育関係者はよく主張されますし、賛同するメディアも同様です。

「学業が本業である学生が就活(ごとき)で学業に身が入らないのはけしからん」

この「学業阻害」論から、被害者は学生であり、大学とする読者(主に大学関係者)もいるでしょう。

そして、この点が企業によるハラスメント行為であり、立法化できるとする論もあります。

それでは、お伺いしますが、就活によって学生の出席・成績が大きく変動したデータはあるのでしょうか?

学生全体ということであれば、内閣府が「学生の就職・採用活動開始時期等に関する調査」を2014年から毎年、取っています。

この調査の中で「就職活動に関する意識と準備・学習時間確保の状況」との項目があります。設問が10点あり、うち2点が「大学の試験に落ち着いて取り組むことができた」「卒業論文(研究)・修士論文(研究)に早い時期から取り組むことができた」と、就活と学業の関連性を問う内容になっています。

他にもいくつかありますが、いずれもふわっとした印象論にとどまっています。

もっと具体的に、例えばですが「就活に×年は●時間かかったところ、▲年は20%も増えた。学生の学業成績は×年と▲年では30ポイントも悪化した」などの調査・データが存在するでしょうか。

そこまで詳細なデータがあれば、「学業阻害」論は成立します。しかし、実際はどうでしょうか。学業成績は大学個別のデータしかありませんし、就活との因果関係をまとめた詳細な調査は私の知る限り存在しません。

ふわっとした印象論程度であれば、ひろゆきさんの名言を借りれば「それってあなたの感想ですよね?」で終わりです。

「学業阻害」論を提唱される大学関係者は学生と大学を被害者としています。いわく、学生は望んでもいない時期に就活をすることになる、これは強要だ、と。

ですが、それは「学業阻害」論提唱者の一方的な主張というものでしょう。実際は、学生側の意思によって就活に参加しているはずです。それが大正時代以降、100年も続いているのです。

それを「就活は企業によって時期を強要された」ということであれば、その逆の「大学妨害」論も成立するはずです。「就活をしようとしたのに、大学によって妨害されて権利を侵害された」、と。

「学業阻害」論も「大学妨害」論も、論の構成としては同じで固有名詞が異なるだけにすぎません。しかも、被害者とされる大学生は自我が確立した成人です。

一般的な解釈では、時間をどう使うかは個人の自由であり権利、と見るのが自然でしょう。

私は法律の専門家ではありません。そのうえでお伝えすると、上記の解釈(個人の権利)が自然だからこそ、就活時期の法制化が難しかったのではないでしょうか。

◆学業の変動は就活とは無関係

「学業阻害」論が無理あるのは、因果関係をまとめたデータの不在や成人した学生の権利を無視しているだけではありません。大学の授業に魅力があるかどうか、あるいは、カリキュラムの制度設計など就活と学生の出席状況は、話が別だからです。

2000年代から在籍している大学関係者からすれば、2008年ごろから学生の出席状況が劇的に変わった、と感じる方が多いはずです。

理由は簡単で、2007年に大学設置基準が一部改正され、単位認定が厳格化したからです。

2020年には大学でオンライン授業が一気に定着しました。コロナ禍で各大学とも構内立入禁止としたからです。

いずれも、国・文部科学省の指導によるものであり、就活はほぼ無関係です。

◆取り締まり者は誰?

就活時期の法制化が難しいのは被害者がほぼ存在しないうえに、取り締まり者は誰か、という問題もあります。

ご存じのように、就活時期については法制化されておらず、取り締まり機関も存在しません。

就活セクハラであれば、警察。内定取り消しであれば、厚生労働省などが該当します。

では、就活時期についてはどうでしょうか。候補としては、厚生労働省、労働基準監督署、警察などでしょう。

このうち、厚生労働省は前記のように、労働省時代の1981年に就職協定策定から抜けてしまいました。労働基準監督署や警察は法律がはっきりしていないと動きようがないでしょう。

大学や大学団体、あるいは経団連など経済団体は民間団体である以上、取り締まりの権限がありません。そもそも、新卒採用をしている企業に新卒採用を規制しろ、ということ自体、無理があります。

法律制定の土台となる憲法改正が無理。被害者も取り締まり者もはっきりしない。結局、自主的な協定・ルールにとどまる、だけど、罰則がない以上、順守する企業はごく少数…。

こういう「デモデモダッテ」は100年前から、現在に至るまで続いています。

◆新発見?「氷河期成立・売り手で崩壊」の法則

本稿をまとめていく作業の中で、就活時期論争について、ある法則を発見しました。

それが「氷河期・混乱期で成立、売り手で崩壊」の法則です。

1929年(氷河期):六社協定成立

→1934年(売り手市場):崩壊

1952年(戦後混乱期):就職協定成立

→1962年(売り手市場):崩壊/日経連「野放し宣言」

1972年(氷河期):就職協定成立

→1981年(売り手市場):労働省脱退

→1996年(氷河期):廃止

2004年(氷河期):倫理憲章

→2019年(売り手市場):経団連、降板を表明

過去4回の就活時期策定のうち1952年以外の3回はいずれも就職氷河期でした。1952年は戦後復興景気もあって就職率は81.0%(文部科学省「学校基本調査」)と高い水準でした。ただし、同年は、新制大学卒業者と旧制大学卒業者が混ざった年であり、新制大学卒業者は不利になる、と言われていました。混乱期にあった、と言えるでしょう。

そして、崩壊(廃止)した4回のうち、1934年、1962年、2019年(いずれも、時期策定団体が降板を表明した年)はそれぞれ売り手市場でした。

そして、就職協定が廃止となった1996年はすでに就職氷河期に入っていました(65.9%)。

ただし、その前の1981年に労働省が時期策定の枠組みから脱退を表明しています。この時点ですでに崩壊した、と見た場合、同年の就職率は76.2%、売り手市場の水準にありました。

この「氷河期・混乱期で成立、売り手で崩壊」の法則、キャリア関連の文献ではこれまで皆無でした。ここに、この法則を私が発見したことをご報告します。

もっとも、この法則、ちょっと勘のいいキャリア関係者であれば、気づいていたはずです。

被害者も取り締まり者も曖昧(または不在)で、法律の作りようがありません。氷河期・混乱期であれば、自主的なルールが必要、となります。ところが、売り手市場となると、企業からすれば、就活時期のルールなど構っていられません。「法律がない以上、好きにしていいでしょ」で結論が出てしまいます。

かと言って、なければないで、目安が欲しい、と言われるのが日本における就活時期です。

今後も、表面的な「やってる」感を出そうとする歴史が繰り返す、と思うのは私だけではないでしょう。

※本稿は『HRmics』2013年夏号掲載「就活温故知新・第4回~就活開始時期論争はいつまでも」を大幅(約1.1万字)に改稿したものです。

Yahoo!ニュース個人・石渡嶺司「1万字」シリーズ・バックナンバー

出生者80万人割れでも大学が潰れないカラクリ~2040年には大学進学率80%超えも(2023年3月1日公開)

追記・修正(2023年3月15日22時40分)

Yahoo!ニュース個人編集部の指摘により、複数個所の誤記を修正しました。

大学ジャーナリスト

1975年札幌生まれ。北嶺高校、東洋大学社会学部卒業。編集プロダクションなどを経て2003年から現職。扱うテーマは大学を含む教育、ならびに就職・キャリアなど。 大学・就活などで何かあればメディア出演が急増しやすい。 就活・高校生進路などで大学・短大や高校での講演も多い。 ボランティアベースで就活生のエントリーシート添削も実施中。 主な著書に『改訂版 大学の学部図鑑』(ソフトバンククリエイティブ/累計7万部)など累計33冊・66万部。 2024年7月に『夢も金もない高校生が知ると得する進路ガイド』を刊行予定。

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