戦国時代、室町幕府滅亡の遠因となった3人のダメ征夷大将軍
大河ドラマ「どうする家康」では、すっかり出番がなくなった足利義昭。義昭の代で室町幕府は滅亡したが、それ以前にも3人のダメ将軍がいたので紹介しよう。
1.足利義政(1436~90)
8代将軍の義政は、応仁元年(1467)にはじまる応仁・文明の乱を止めることができなかった張本人である。その上、政治には熱心ではなく、余計に混乱を招くことになった。
長禄3年(1459)以降、悪天候のなどの影響によって、寛正の大飢饉が起こった。各地で疫病が蔓延し、人々は飢えに苦しみ、餓死する者が続出した。しかし、義政は対策をするどころか、猿楽や酒宴に明け暮れる日々を送った。
応仁・文明の乱が勃発すると、子の義尚に将軍の座を譲り、自らは東山山荘や銀閣寺を造営し、享楽の日々を過ごした。義政がマジメに政治に取り組めば、事態は少しぐらいマシになったかもしれない。
2.足利義尚(1465~1489)
義尚は父・義政のあとを受けて、9代将軍に就任した。応仁・文明の乱後、義尚は政治に大いに関心を抱き、一条兼良から『樵談治要』を授けられ、帝王学を学んだ。その点は、父と大違いである。
長享元年(1487)9月、近江守護六角氏の非法を訴える荘園領主の求めに応じて、六角氏征伐を敢行するがうまくいかなかった。義尚は陣中で女色におぼれ、過剰に飲酒したので若死にしたのである。
3.足利義材〔義稙〕(1466~1523)
義材は義視(義政の弟)だったが、義尚の死後に10代将軍の座に就いた。義材は義尚の遺志を受け継いで、六角氏征伐を敢行した。そして、将軍親裁権を確固たるものにすべく、明応2年(1493)2月に河内の畠山基家を討つべく出陣した。
しかし、その間に細川政元が日野富子と協力し、義材を将軍の座から引きずり下ろすと、足利義澄を11代将軍に擁立した。その後、義材は大内義興を頼り、一時は帰京に成功するが、何度も流浪を繰り返したので「流れ公方」と称された。最期を迎えたのは阿波である。