オグリキャップとホーリックスが競り合ったジャパンC。当時のジョッキーに話を伺い、感じた事とは……
ホーリックスとオグリキャップの激しい競り合い
いよいよジャパンカップ(G1、東京競馬場、芝2400メートル)が今週末に迫った。
しかし、今年は39回目にして初めて海外からの出走馬が皆無。口さがない人には“純ジャパンカップ”とか“オールジャパンカップ”と言われる由々しき事態となってしまった。
とくに我々世代のようにこの大一番の創設当初から知っている人間は悲しく感じずにはいられない。日本のトップホース達がよく分からない外国馬に全く歯が立たなかった1981年の第1回。曳き運動だけと言われたスタネーラが優勝した第3回も衝撃的だった。ミスターシービーやシンボリルドルフという2頭の三冠馬をも負かしてカツラギエースが逃げ切った第4回は、こんなに早く日本馬が勝利をする時が来た事にも驚きを隠せなかった。翌年は雨中の決戦でシンボリルドルフが1番人気に応え優勝。これで日本馬が2年連続優勝となったわけだが、翌年からは再び外国馬達に日本勢が粉砕される。86年から91年まで6年連続で海を越えて来た馬達が先頭でゴールを駆け抜けたのだ。
そんな中、今でも語り草となっているのが第9回が行われた89年のジャパンカップだろう。
この年、1番人気に推されたのは若き武豊騎手騎乗のスーパークリークだった。前年の菊花賞馬で、この秋も京都大賞典と天皇賞(秋)を連勝。このジャパンカップに名を連ねてきた。また、前年の覇者であるペイザバトラーも出走していた。しかし、彼等を尻目に、2頭の芦毛馬がゴール前で抜け出した。日本のオグリキャップとニュージーランドからの遠征馬ホーリックスだ。
今回、私はニュージーランドの北島にあるマタマタ競馬場を訪れ、そこで厩舎を開業するランス・アンソニー・オサリバン調教師の元に伺った。現在は調教師をしながら結婚式場を経営するという彼の名は、オールドファンならピンと来たのではないだろうか。かつてホーリックスの手綱をとっていた元ジョッキーである。
「ジャパンカップは内枠を利して、道中もロスなく回れました」
競馬場内に構える厩舎のオフィスで自らが制したジャパンカップのパネルを前に当時を述懐する。
最後の直線で内から抜け出すと、オグリキャップの猛追をクビ差、抑えた。3着のペイザバトラーは2着から更に3馬身も離されていたから正にマッチレースを制しての戴冠であった。
「下がってきた逃げ馬を上手にパス出来ました。最後はミナイ(オグリキャップの南井克巳当時騎手、現調教師)が迫ってきたけど、なんとかしのげました」
勝ち時計は2分22秒2。当時としては破格のレコードタイムに、場内が沸いた。
「ウェイバリースター(86年富士S1着、ジャパンカップ5着)で初めて日本へ行った時に、お客さんの多さに驚いたけど、ホーリックスで勝てた時はそんな競馬ファンの声援を一身に浴びる事が出来て、本当に夢心地でした」
その後、2008年には第2回ジョッキーマスターズに招待され、東京競馬場のエキジビジョンレースに騎乗しているオサリバンは言う。
「日本は人が親切で正直だし、犯罪も少ない安全な国なので大好きです。機会があればまた行ってみたいって常日頃から妻に言っています」
最後に改めてホーリックスとはどんな馬だったのかを聞くと、彼は次のように答えた。
「彼女は人間の事が大好きな馬でした。今でもジャパンカップを勝った時を思い出す事がありますよ」
外国馬の強かった当時と違い、近年は日本馬が上位を独占するのも当たり前になってきた。そして、冒頭で記したように、今年はついにジャパンカップ史上初めて日本馬だけの開催となってしまった。理由としては日本馬が強くなった事や、遠征しやすい複数の高額賞金レースを同期間に行うミーティングが世界中に増えた事など、様々な要因が考えられる。今後のジャパンカップを憂えば、その原因を究明して対策を練る事は必須だろうが、今はもっと感情的に訴えたい。ホーリックスとオグリキャップの時のように、強い外国馬と速い日本馬がハイレベルの競り合いをする。単純にそんなジャパンカップを是非また見てみたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)