【戦国こぼれ話】大坂冬の陣では、なぜ大名が1人も豊臣家に味方をしなかったのか。当然すぎる理由
慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣がはじまったが、全国の大名は1人も豊臣家に味方をしなかった。実は、そこには当然すぎる理由があったので、考えてみることにしよう。
■大坂冬の陣の開戦
慶長19年(1614)10月、徳川方と豊臣家は決裂し、大坂冬の陣がはじまった。その理由は、方広寺の大仏に「国家安康」の文字があり、それが家康の名前を二つに引き裂いた不吉なもので、家康が問題視したからだといわれている。
大坂冬の陣では、全国すべての大名が徳川方に味方し、豊臣家に与した大名は一人もいなかった。それゆえ豊臣家では、職がなく放浪していた牢人(浪人)に頼らざるを得なかった。
とはいえ、豊臣家でもまったく努力をしていなかったわけではない。
■断られるばかりの豊臣家
開戦が迫ったころ、大野治長は薩摩の島津氏に「豊臣家の味方になって欲しい」と書状を送った(「島津家文書」)。
しかし、結果は無残なもので、断られたのである。断りの理由には、関ヶ原合戦で敗北したことを挙げている。もう島津氏は懲りていたのである。
豊臣家では、ほかにも阿波の蜂須賀氏らにも味方になって欲しいと懇願したが、けんもほろろに断られるばかりだった。
では、なぜ諸大名は豊臣家に味方することを躊躇したのだろうか。そこには、当然すぎる理由があった。
■豊臣家に勝ち目なし
もっとも大きな理由は、この頃には徳川家の覇権が確立していたからだろう。慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任し、その2年後に子の秀忠に将軍職を譲っていた。
その後、家康は駿府に移り、大御所政治を行った。さらに、諸大名は幕府の命に応じて、転封を余儀なくされたり、あるいは改易されたりと、とても逆らえる状況にはなかった。
一方の豊臣家は政権の座から引きずり降ろされ、もはや徳川家とは比較にならないほど、その威勢は衰えていた。
客観的に見れば、「豊臣家に勝ち目なし」ということになろう。情に流されて、「豊臣家に味方する」などのお人好しな大名はいなかったのだ。
■豊臣家に集まったのは烏合の衆
一方、豊臣家に集まったのは、先述のとおり牢人たちだった。集まった理由は単純である。第一に、豊臣家は気前よく、彼ら牢人衆に蓄えていた金銀を与えたからである。
第二に、牢人衆が豊臣家から勧誘された際、戦勝後の莫大な恩賞を約束された例もあった。真田信繁は信濃一国、長宗我部盛親は土佐一国をそれぞれ与えるという具合である。
第三に、豊臣家が徳川方に勝利すれば、敵方の領土の大半は没収される。つまり、没収された土地は、牢人衆に恩賞として与えられることになる。
「豊臣家が勝てば」という条件付きであるが、牢人衆にはメリットがあった。しかし、結果は承知のとおり、豊臣家の大敗北に終わったのである。
■打算的だった大名たち
当時の人々は打算的で、友情やかつての恩顧などの情に流されなかった。かつて、豊臣家の恩を受けた大名たちも同じで、負けて家が滅亡してしまっては元も子もないので、徳川方に与した。
一方の豊臣家に馳せ参じた牢人衆も同じことで、「豊臣家のために」と集まった者がどれだけいたのか疑問である。
大半の牢人衆は当座の金銀が目当てであって、豊臣家のことをさほど思っていなかったのかもしれない。