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[高校野球]あの夏の記憶/石川雅規との投げ合いでサヨナラ負けの和田毅、1年後のベスト8 その1

楊順行スポーツライター
日米通算で130勝以上の和田毅だが、高校入学時は外野手候補?(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 和田毅(現ソフトバンク)が、島根・浜田高校に入学したとき。

「最初に買った硬式のグラブは、外野用なんですよ」

 という話を、本人から聞いたことがある。 

 1901年創部の浜田は、山陰屈指の伝統校だ。51年のセンバツが甲子園初出場で、梨田昌孝(元近鉄)がいた71年の春夏など、春夏合計15回、甲子園に出場している。和田の入学時、野球部監督だった新田均監督も、同校のOBだ。日体大卒業後、母校に赴任してすぐの79〜81年夏、そして82年センバツと、4度の甲子園で3勝をあげている。一時中学校の教員に転じ、90年に同じ県内の大社に赴任すると、そこでも92年の夏に甲子園へ。ふたたび浜田に戻ったのは95年だった。だが、自身が離れてからの母校は、県大会の初戦負けもめずらしくないほどで、すっかり甲子園が遠くなっていた。かつて話を聞いたとき、新田監督は苦笑していたものだ。

「僕が転任した95年、野球部の新入部員は5人しかいませんでした。それも、入部希望者は春休みから練習に合流するのが慣例なのに、参加者はたった一人(笑)。部がつぶれるかと思いましたよ」 

 つぶれるのは冗談としても、赴任後の新田監督、近郊のめぼしい選手に「浜田にきてくれ」と声をかけまくった。だが学力とのかねあいもあるから、有望な選手がいても受験してくれるとは限らない。出雲市在住の和田も実は、大社への進学に固まりかけていた。だが和田の父・雅之さんは新田監督と入れ替わりの日体大の先輩。新田監督の大社在任時は、家が近所だったという縁もあり、出雲市から70キロ離れた浜田への進学に転じた経緯がある。

遠投はわずか77メートル

 結局和田たちの世代は、10人が入部した。もっとも、県立の普通校である。新入部員に、とりたてて中学時代の実績があるわけじゃない。和田にしても県大会出場はなく、だから新田監督はそのプレーを見る機会がなかった。新入生を前にしても「和田、いうのはどれかいな?」とたずね、そこで初めて左利きだと知ったくらいだ。左かぁ、外野しかないな……だから、和田が最初に買ったグラブは外野用なのだ。ただなにしろ、上級生は絶対数が不足している。そこへもってきて、左というのは貴重だ。試しにブルペンで投げさせると、イキのいいタマを放った。新田監督の回想。

「当時の和田は、身長も170センチないし、体重も55キロくらい。遠投させれば77メートルです。それでもバネがあり、運動神経がよかった。実際に試合に使ってみると、スリーボールになっても球を置きにいかないし、腕を振って投げるんです。そのあたりがピッチャー向きでしたね」 

 その目利き通り、和田は順調に育つ。というわけで97年夏、新田監督の赴任3年目にして、浜田は16年ぶりの甲子園出場を果たすのである。和田は2年生エースとして、島根大会35回3分の2を投げて7失点。球は速くはないのだが、34の三振を奪っていた。甲子園では1回戦、秋田商と対戦。浜田打線は、石川雅規(現ヤクルト)から3点を奪い、9回の守りを迎えた。だが、そこまで相手を1点に抑えていた和田が先頭から連打を浴び、さらに守備の乱れが重なって同点に。そこからもピンチが広がり満塁策をとったが、最後は和田が石川に四球を与えて押し出し。悪夢のような逆転サヨナラ負けを喫することになる。

 甲子園に、大きな借りができた和田。目標はまず翌年のセンバツだ。新チームは順調に秋の島根を制覇したものの、中国大会で和田に異変が起きた。岩国(山口)との3回途中で、上腕三頭筋を断裂してしまうのだ。チームもコールド負けし、センバツ出場は夢と消えた。目標は夏に切り替えるしかない。それには、和田の回復具合がカギを握る。診断は、「2カ月ギプスで固定し、2カ月リハビリすれば、夏には十分間に合う」。よしっ、と新田監督は一計を案じた。和田とキャプテンの田中寿を呼び、「夏には、間に合わないふりをしよう」と告げたのだ。

最後の夏に間に合わない……?

「相当裏話ですよ」と、和田本人から聞いたところによると、「県内のライバルに、和田は投げられない、と思わせるわけです。ですから、春の大会では外野を守り、打球が飛んできたら、すぐそばにきたカットマンに山なりの返球をしていました。回復は順調で、5月ころから連日100球ほど投げていたんですよ。だけど、あくまで"和田は投げられない"ふりを貫き、練習試合でさえほぼ登板せずに夏本番を迎えました」

 敵を欺くにはまず味方から。当初は、チームメイトにさえ和田は無理だと装った。そうやってチームに危機感を煽れば、控え投手も尻に火がつくし、打線も奮起するだろう、という思惑もあった。7月に入り、広島商との練習試合にようやく2試合登板した和田だが、迎えた本番、98年夏の島根大会はさんざんである。淞南学園(現立正大淞南)との初戦では初回につかまり、小松原研の救援を仰ぐのだ。それでも、投げるごとに実戦感覚はよみがえり、エースの疑似アクシデントで成長した打線も4割を超すチーム打率を残し、浜田は2年連続で甲子園にコマを進めることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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