倒産寸前の水道屋がタピオカ屋とアパレルを始めたら「世界一やりたいことができる会社」になった 第1回
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今回のゲストは、オアシスライフスタイルグループ代表取締役の関谷有三さんです。これまで衣食住のそれぞれの分野でヒット事業を生み出し、「令和のヒットメーカー」と呼ばれる方です。栃木県の倒産寸前の水道屋が、なぜタピオカミルクティーの仕掛け人になったのでしょうか? また、アパレル業界でも異例の大躍進を遂げた理由とは? 「世界一やりたいことができる会社」を目指す関谷有三さんに話を伺いました。
<ポイント>
・倒産寸前の実家の水道屋を継いだ理由
・事業の撤退基準は、「金か命が尽きるまで」
・悔いの残る人生を送って死ぬくらいなら、挑戦し続ける
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■コギャルにモテるために、優等生が不良の道へ
倉重:今回はオアシスライフスタイルグループ代表取締役の関谷さんのオフィスでインタビューをさせていただいています。まずはじめに関谷さんの自己紹介を簡単にお願いしていいですか。
関谷:オアシスライフスタイルグループの代表をしています関谷です。事業内容は多岐に渡ります。もともとは実家のつぶれそうな水道屋を継ぐところから始まりました。今では水道事業は全国展開をしています。それと、「春水堂(チュンスイタン)」という台湾ブランドのカフェの運営や、「スーツに見える作業着」がコンセプトのアパレル(WWS)など、衣食住というライフスタイルにまつわるさまざまな事業を展開しています。
倉重:水道屋と台湾カフェとアパレル、全く関係のない事業をしていますよね。今日はなぜそのようなことにチャレンジしていったのかを、関谷さんの生い立ちから紐解いて考察したいと思います。学生時代は優等生だったのですね?
関谷:そこからですか(笑)。高校に入るまでは典型的な優等生でした。
倉重:高校から不良に憧れて、一気に転落といいますか。
関谷:僕の中では転落ではないのですが(笑)。当時、僕の世代はコギャルブームで、コギャルが世の中で一番輝く存在だったのです。
倉重:そうでしたね(笑)。確かに勉強ができてもコギャルとは付き合えませんよね?
関谷:付き合えないです。あの当時カーストで言うと、とにかくかわいいガングロのコギャルと付き合うのが、ティーンエージャーとして最上級のステータスだったのです。
倉重:関谷さんは「勉強やったってしょうがねえや」と思って不良グループに入ったのですか。
関谷:コギャルと付き合うためには、僕らの世代だと不良のチームに入らないといけなかったのです。それでチームに自ら入って不良になりました。
倉重:親は悲しみますよね。大学生ではイベントサークルを自ら立上げたと。
関谷:僕たちはイベントサークル全盛期の世代なので、イベントサークルに入ってクラブでパーティーすることが、大学生のイケてる最前線だったのです。大学入学後すぐ、自らイベントサークルを立上げ代表を務めていました。
倉重:ガンガン遊んでいたパリピだったのですね。私は大学時代は応援団だし、高校時代は引きこもりだったので、私とは真逆のうらやましい学生生活を送っています。その後、実家を継ぐために卒業後に地元栃木に戻ってしまうのですよね。
関谷:実家は一番継ぎたくありませんでした。高校、大学とミーハーで派手なことが好きだったし、東京でも割と名前が売れて活躍していたので、地元には戻りたくなかったのです。ただ、おやじの具合が悪くなってしまって、「帰ってこい」と言われてしまいました。
倉重:きっとすごく悩みましたよね。
関谷:散々悩みました。ただ、小学生のときは「東大に進学して外務省に入って代議士になる」という目標があり、両親の自慢の優等生でした。高校生からはその道から大分外れてしまった。ずっと親の期待を裏切り、泣かせてきたので、「親孝行をしておこうかな」と思って栃木に戻ることにしました。
倉重:その後はイベントサークルの友達からの連絡も全部無視をし続けて、「関谷、死んだらしいぞ」と噂されたそうですね。そのときのメンタルはどのような感じでしたか。
関谷:もうボロボロでどん底です。実家を手伝っても水道のこともよく分からないし、周りは親子ほど年の離れた職人ばかりです。モチベーションも上がらず、営業をかけてもうまくいきませんでした。ずっと大きな挫折もない人生だったので、「本当に自分は社会の底辺だ」「何をやっているのだ」と悶々とした3年間でした。同世代の友達は派手好きですから、「海外出張へ行った」とか、「OLと合コンした」という楽しそうな話ばかり聞こえてくるので、心が病んでしまって最後には着信拒否しました。
倉重:どうやってその状況を打破したのですか。
関谷:本当に毎日つら過ぎて、逃げ出したくて、いつ辞めようかと悩んでいたのです。ただ、毎日悩むことにも疲れてしまって、万策尽きて「もう勝つまで辞めない」と決めました。
倉重:弱っているときに、よくそんなふうに思いましたね。
関谷:逆にメンタルが弱り過ぎていて毎日逃げ出したかったので、「逃げない」と決めれば一個悩みが減ると思ったのです。ポジティブというよりは、苦肉の策でした。
倉重:その後はどうなるのですか。
関谷:たまたま市役所に行ったときに助成金の募集を見つけました。「書類を書いたらお金がもらえるのか」ということで、無料相談コーナーのおじいちゃんが暇そうにしていたので、朝から夕方まで、丁寧に書き方を教えてもらったのです。
倉重:助成金相談コーナーのおじちゃんと二人三脚でやっていくのですね。
関谷:昔の映画の『ベスト・キッド』のような師弟コンビになりました(笑)。
倉重:無料相談コーナーは、どこの役所にもありますが、それを本気で使い倒す人は、なかなかいません。おじいちゃんも喜んだでしょう。
関谷:孫のような存在になったので、助成金がとれたときはおじいちゃんも喜んでくれました。元優等生なのでやればできました(笑)。
倉重:確かに成績もよかったわけですから地頭は良いんですよね。それで、事業もよくなっていくわけですか。
関谷:助成金を活用して、大学と一緒に産学連携で共同研究もしました。目をつけたのは大学が研究していたオゾンです。オゾンで水道管の中を殺菌してきれいにする次世代の水道管メンテナンス事業を考えました。
倉重:そのオゾンの水道管メンテナンス事業が拡大していって、再び東京に打って出るわけですね。
関谷:28歳で独立をして、マンションの一部屋から起業をしたのです。そこから5年間はイケイケどんどんで、自分で手掛けた水道の新規事業を全国展開していきました。業績が絶好調で上場の準備もしていた頃に3.11があったのです。工事業ですから、売上げが一時的に半分くらいになってしまいました。そのときに、「一つの事業で世の中の大きな変化に対応はできない」ということに気づきました。もともと水道を好きではじめたわけではありません。凄くいい事業ではあったけれども、生きるためにやっていたことなので、「本当に心の底からやりたいものが見つかったらチャレンジしたい」と思いました。
倉重:IPOを目指せる規模の事業なら一般的には全然悪くないと思いますが、改めてその後の人生について考えたのですね。
関谷:一本足でもそのまま行けたかもしれませんが、深く人生のことを考えてしまったのです。「日本一の水道屋になりたいのか?」と心に問うたときに、イエスと言えませんでした。
倉重:もともと家業を継いだわけで、ご自分で進んで選んだ道ではありません。その後「水道以外にも心の底からやりたいことが見つかったらチャレンジしよう」と決めたわけですね。
関谷:3.11をきっかけに、会社のビジョンとして「世界一やりたいことができる会社」という壮大すぎる風呂敷を広げました。それが弊社の根底になっているのです。社会に出てからは水道しかやったことがなかったので、「何か新しいことをしたいけれども、何をしていいのか分からない。ただ、何かやりたいことを見つけたときに、世界一挑戦できる会社でありたい」と思いました。
倉重:それは従業員も含めてですか。
関谷:従業員も含めてです。社員もポカンとしていましたけれども。「何をやるのですか?」と聞かれて、「まだ何もわからないけど、見つかったときにやりたい」と言いました(笑)。
倉重:そのためには社長が挑戦している姿を見せないといけないですね。
関谷:そうです。当時は水道の事業をアジアに広げるために、いろいろな国に出張していたのです。台湾でたまたま春水堂(チュンスイタン)と出会って、運命的にビビビッと来てしまいました。「このブランドは日本に持ってきたらすごいことになる」と思ったのです。
倉重:台湾でもタピオカミルクティー発祥の老舗ですよね。全く海外に出ないことで有名だとか。
関谷:台湾ではとても有名ですが、ファミリーカンパニーなので、台湾から出ないのがオーナーの方針でした。私もオーナーに会えるまでに1年半かかったのです。
倉重:1年半通い続けるのもすごいです。
関谷:しかも、台中は日本から割と遠いのです(笑)。飛行機で行って、新幹線に乗って、そこから車を結構走らせたところに毎月通いました。
倉重:毎月そのためだけに通ったのですよね。なぜそんなにタピオカのお店をやりたいと思ったのですか。
関谷:タピオカというよりも、そのブランドの世界観にほれてしまいました。飲食がやりたかったわけでもありません。経験もないですし、もともとは全く興味のない分野でした。ただただ、そのブランドがすごく好きだったのです。
倉重:まだ日本に来ていないし、誰もやっていないし、持ってきたら絶対にヒットすると思ったわけですね。
関谷:当時スタバが日本でとてもはやっていて、それを日本に持ってきたサザビーが脚光を浴びていました。「これはアジアのスタバを見つけたかもしれない」とビビッと来たのです。
倉重:そのあとさらに1年半口説き続けたのですね。
関谷:口説きに行ってすぐ契約が取れたのだったら、こんなに気持ちが盛り上がっていなかったと思います。会えないし、会っても首を縦に振ってくれない人でした。世界中から「私の国で一緒にやりましょう」という人が来るわけです。愛と負けず嫌いですね(笑)。
倉重:当然他の皆さんは飲食事業者ですよね。
関谷:ライバルは他の飲食事業者や、大きなコングロマリットの会社ばかりです。オーナーに会ったとき、「君は日本でどんな飲食店を経営しているの?」と聞かれて、「水道の仕事をしています」と言ったら、「えっ? 何を言っているんだ?」という感じでした。
倉重:でも、オーナーさんはすごく気に入ってくれたのですね。
関谷:オーナーには興味を持って頂き、時間を忘れて何度もたくさんの話をしました。あと、負けず嫌いなので、やはりうんと言ってもらえるまで通おうと決めていました。
倉重:提案書は自分で作っていたのですか?
関谷:資料も全部自分で作っていました。もちろん通訳は入れていましたけど。
倉重:最終的には、ついに初出店が日本ということになったわけですか。
関谷:今から9年半くらい前に出した代官山1号店が、春水堂の世界進出第1号店です。
倉重:すごいです。なぜ許してくれたのでしょうか。
関谷:情熱もありましたし、一番のポイントは息子さんでした。当時オーナーが絶対的なカリスマだったので、息子さんがなかなかチャレンジしにくい環境だったのです。
僕の切り開き方は、圧倒的にプロファイリングをしていきます。相手がどのような性格で、どんなアプローチであれば首を縦に振るのかは、いつも考えながら交渉しています。オーナーさんはお金もうけよりも恐らく息子さんの事業継承のことで悩んでいるだろうと予想していました。「息子さんは台湾だと挑戦しにくいので、別の機会を与えてあげましょう。日本という第三国で挑戦をして、うまくいけば海外進出を成功させたという息子さんの手柄になります。失敗すれば、水道しかやったことのない僕が悪いのだと言えます。相手が大き過ぎる会社だと息子さんは取り込まれてしまうかもしれないけれども、僕は年も近いし、飲食業をやったことがないからこそ誰よりも素直だし、組むには間違いなく世界一のパートナーです」というプレゼンテーションをしました。
倉重:なるほど。「もうかりますよ」「うまく展開できますよ」ということではないのですね。オーナーが本当にしたかったことに刺さったのでしょう。でも、日本に持ってきて簡単にうまくいったわけではないですよね?
関谷:店は赤字続きで、利益が出るまでに3年かかりました。
倉重:その間周囲から、「もうやめてくれ」というような声もありましたか?
関谷:当然ありました。水道の利益をずっと溶かしながら経営していたので。水道の社員たちからは「お願いだからもうやめてくれ」と何度も懇願されましたし、銀行はカンカンでした。
倉重:融資を引き上げるぞと言われましたか。
関谷:なんども言われましたが、オーナーさんの世界初出店を、台湾の幹部の大反対を押し切ってやってもらっているので、引くに引けないわけです。もう辞めることもできないし、突き進むしかないという感じでした。ただ、眠れない毎日です(笑)。
倉重:これも「成果を出すまでやろう」と思っていたのですか。
関谷:もちろんです。「無一文になるまでやろう」と思っていました。いつもフルスイングです。
倉重:それでも、ぎりぎりでいつも勝ち続けてきているのはすごいと思います。
関谷:新しいことをしているので、「撤退基準を決めないのですか」とよく聞かれます。撤退基準は「金か、命か、どちらかが尽きるまで」です。
倉重:簡単ではないでしょうけれども、「それは成功するわ」という感じです。良い意味で頭のねじが外れていますね(笑)。チャレンジ精神や負けず嫌いは、どのような育ち方をしたら培われるのでしょうか。昔から負けず嫌いでしたか?
関谷:負けず嫌いは昔からそうです。とにかく「人生楽しく生きたい」という信念があります。高校生時代は不良になって、コギャルと付き合うことが一番楽しかったし、大学時代はイベントサークルの運営が楽しいことでした。起業家になってからは、自分の信じた事業に命がけで勝負するのが楽しいことになりました。
一方では、すごく臆病なのです。楽しくない人生や悔いの残る人生を送って死ぬことにおびえがあります。死んだときに、「俺の人生はつまらなかった」と思うことに、すごく恐怖感があるのです。
世の中の老人は皆「もっと若いときにチャレンジしておけばよかった」と言いますよね。それを自分の中ですごく意識しています。
倉重:「もう散々やり切ったよ」と思って死にたいということですね。
(つづく)
対談協力:関谷 有三(せきや ゆうぞう)
オアシスライフスタイルグループ代表取締役
1977年栃木県宇都宮市で生まれる。2001年成城大学入学3日目にしてイベントサークルを立ち上げ、大学最大級の規模へ拡大。大学卒業後、倒産寸前だった実家の水道工事店を立て直すため地元の栃木に戻り再建に成功。その後、2006年(株)オアシスソリューションを起業し、大手マンション管理会社と提携するビジネスモデルを生み出し、数年で全国規模に成長させ業界シェアNO.1を誇る企業へと躍進。
2011年東日本震災を経験し、1つの事業だけでは事業の永続は難しいと痛感し、3本柱の事業を運営することを決意。2013年タピオカミルクティー発祥の台湾のカフェブランド「春水堂」を3年の交渉の末に日本へ誘致し、代官山に海外初店舗をオープンし、その後全国へ展開し空前のタピオカミルクティーブームの火付け人となる。
2017年水道事業の作業着をリニューアルしたことを契機に第三の事業としてアパレル事業を立ち上げ、独自開発の新素材「ultimex」を使用したスーツに見える作業着「ワークウェアスーツ」を開発。現在、導入企業数は1,600社を突破。2019年にはユナイテッドアローズ名誉会長の重松氏が顧問に就任。2021年現在、ユナイテッドアローズ、ベイクルーズをはじめとしたセレクトショップや三越伊勢丹などの百貨店での取り扱い、ANAとのコラボなど注目を集め、コロナ禍のアパレル不況の中でも異例の急成長を続けている。
2021年3月8日に自身初の書籍「なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?」を発行。時代を先駆ける様々な新規事業を成功へ導き、「令和のヒットメーカー」と呼ばれる。