大阪クリニック放火事件 現時点での犯罪心理学的分析
事件の分析をする意義
25人もの人が死亡した大阪市のkクリニック放火事件。容疑者は、依然重篤な状況であり、捜査機関は話を聞くことすらできていない。この状況で、事件の動機や背景を分析するのは無理がある。しかし、報道によれば、容疑者の脳機能には深刻なダメージがあるとのことで、最悪の場合、容疑者の供述を得ることができないまま、事件の解明が不可能となってしまう可能性もある。
だとすれば、現時点で明らかになっている事実を元に、限られた中であることは承知で、一定の分析をすることが、われわれにできる最善のことと言えるかもしれない。
この段階で犯罪心理学的な分析をすることには、2つの意義がある。第1に、事件の背景や考えられる心理を分析することによって、本事件の解明だけでなく、将来の類似の事件を防止するうえで、何らかの有益なことが見えてくる可能性があり、それは社会的意義が大きい。
第2に、社会の耳目を集めた事件ともなれば、多くの「自称専門家」や非専門家が、メディアでさまざまな発言をしたり、自己流の分析をしたりということが横行する。それは多くの場合、過度に情緒的な「物語」の創作に終わることが多く、事実とはかけ離れたものとなりがちである。これは、犯罪心理学の専門家として、看過できないものがある。したがって、専門家として科学的な見地から事件を分析し、この事件や犯罪一般、そして加害者や被害者について、誤った情報が流布してしまうことを防止する責務がある。
一方で、先述のとおり、やはり拙速な分析には限界があり、問題もある。したがって、現時点でわかっていることとわからないことをきちんと区別したうえで、あくまでも「現時点」での分析、あるいは仮説として提示しておき、また新たな情報が判明した時点で、それを修正していくことで、一定の正確さを担保することができるだろう。
とはいえ、もちろんこれも絶対のものではない。まず、この基準はアメリカ精神医学会の倫理基準であり、わが国に直ちにあてはまるものではない。また、主に精神科医の「診断」に対する基準であるので、犯罪心理分析までをも対象としたものではない。さらに、分析を行うことに顕著な社会的意義が認められる場合、むしろ、何もしないことのほうが非倫理的だとも言える。
前置きが長くなったが、こうした前提に立って、慎重にかつ科学的根拠に基づきながら、本事件とその背景、心理などについて、専門的見地から現時点での分析を行うことは、社会的意義も大きく、倫理的な問題をはらむものではないと考えられる。
前回の事件
容疑者は、2011年にも殺人未遂事件を起こして、懲役刑を受けている。この事件から見えてくることは、本事件を解明するうえでも重要な大きな手掛かりを提供してくれる。
容疑者は、2008年に元妻と離婚、その後2010年には仕事を辞めている。孤独感や不適応感に苛まれていた容疑者は、妻に何度も復縁を迫ったが、にべもなく断られていたという。そして、2011年に前途を悲観して、無理心中をしてしまおうという考えに至り、家族が集まる席に刃物を持って出かけ、長男を何度も刺して殺害しようとした。
この事件の動機から見えてくるのは、本人の「破滅的思考」である。これは本事件においても、1つの重要なキーワードとなる。仕事や家庭でうまくいかず、職を失ったり、家族失ったりした場合、一旦は落胆したり抑うつ的になったりしても、周囲の助けを借りたり、気持ちを立て直そうと努力したりして、徐々に前向きに人生の歩みを進めることができる人もいる。
一方で、その事実にうちのめされ、「もう先は真っ暗だ」「死ぬしかない」などと思い詰めた挙句、「破滅的思考」にとらわれ、その結果、心理的視野が極端に狭窄し、破滅的に自殺や他殺などの重大な犯罪に及ぶ者がいる。この人物の心理的特徴は、これにあてはまるだろう。
そして、この心理が今回の事件にも同じようにあてはまると見ることができる。今回の場合は、前回の事件で懲役4年の実刑判決を受け、刑務所を出所してからおよそ10年後に起こしている。その間、仕事や住居を転々とし、借金を膨らませ、孤独の中で前回以上に心理的に追い詰められていったと考えられる。
そのせいだろうか、今回の場合は、直接恨みのある相手だけでなく、関係のない多くの人々を狙っており、しかも「絶対に失敗してはいけない」「1人でも多くの犠牲者を出す」という執拗な悪意や激しい攻撃性が読み取れる。
セントラルエイト
犯罪心理の分析を行う際に、最初に私が検討するのは、いつも「セントラルエイト」と呼ばれる犯罪リスク要因の検討である。これは、複数のメタアナリシスによって導き出されたエビデンスに基づく犯罪リスク要因のことである。その概要は、表のとおりである。
ここでセントラルエイトを見ていくと、実に多くの項目がこの容疑者にあてはまることがわかる。第1の犯罪歴に関しては、過去に息子に対する殺人未遂という重大な犯罪で懲役刑に処せられた事実があることは、上に述べたとおりである。
第2、第3の反社会的パーソナリティ、反社会的態度もこの人物にはよくあてはまる。中でも、先にキーワードとして挙げた「破滅的思考」は、衝動性、攻撃性など他のパーソナリティ傾向と結びつき、きわめて悪質な反社会性を帯びている。そこには、人を傷つけることや社会規範などを一顧だにしない「反社会的態度」が明白である。
第4の反社会的交流については、現時点ではよくわからない。おそらくそのような交流はなかったであろうと思われる。第5の家庭内の問題には、多くの点が挙げられる。まずは何らかのトラブルで離婚をして、本人は大きな孤独感に苛まれていたこと、そして何より実の息子を殺そうとしたのであるから、大きな問題や軋轢があったことは明白である。
第6の職場での問題に関しては、犯行時は無職であったことがわかっている。職人の仕事をしており、腕のいい職人であったという証言があるが、仕事仲間とのトラブルなどで職場を転々としていたことも報じられている。第7の薬物・アルコール問題については、よくわかっていないが、飲酒上のトラブルや問題があったという証言もある。第8の余暇活用に関しても、よくわかっていない。しかし、これは推測の域を出ないが、深刻な不適応感、孤独感に苛まれていたものの、それを癒すような余暇の楽しみ方をしていたようには思えない。
このように分析していくと、セントラルエイトの多くがあてはまり、きわめて犯罪リスクの高い人物であったことがわかる。おそらくは元来反社会的パーソナリティ、反社会的態度が目立ち、それゆえに対人的、家庭的トラブルを頻発させていた人物像が推測される。そして、それが元で離婚、離職などに結び付き、孤独感や不適応感、そして社会への反感を募らせていったのだと推測できる。それがさらに、元来の反社会的パーソナリティを悪化させ、破滅的思考へと収束して、破滅的な重大犯罪へと結びついていったのだと言えるだろう。
課題
前の事件のあと、せっかく精神科のクリニックにつながっていたのに、彼の問題性を「治療」することができなかったのは残念である。というのも、一般の精神科では、「うつ病」「抑うつ状態」のように、診断のつく病気の治療はできても、その根底に横たわるパーソナリティの治療までを行うところはほとんどない。しかも、反社会性については、司法観察医療機関のような専門機関を除いて、対処できる医療機関は皆無といってよいだろう。これは、わが国の司法や医療が抱える大きな課題であると言える。
さらに、この事件に関しては、容疑者が「京都アニメーション放火事件」などの類似事件の記事を所持していたことが明らかになっている。事件を起こそうとする者が、その計画の時点で、過去の事件の手口を参考にするのはよくあることである。なぜならば、失敗したくないからである。
だとすれば、今後同様の災禍を生まないためにも、この事件においても、詳細な手口の報道をすることは控えるべきである。大きな事件が起きたとき、その背景などを知るうえで、詳細な報道がなされることは仕方ない。とはいえ、たとえば被害者のプライバシーに立ち入るような報道に対しては、多くの批判が集まり、最近は抑制的にもなった。それと同じように、詳細な手口の報道も、模倣犯を生まないためにも避けるべきである。
今年8月小田急線放火事件、10月京王線放火事件の際にも、同じようなことを指摘したが(プレジデントオンライン「マスコミが模倣犯を育てている」 心理学者である私が軽はずみなコメントをしない理由)、今回も残念ながら同じことが繰り返されている。
国民の「知る権利」を十分に保障したうえで、知る必要があるとまではいえないような事件の詳細な手口を報じることに、社会的な意義があるのか、それに害はないのか、その点を十分に議論していく必要を感じている。