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母親を責めて終わるのではなく

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

7月に報道された件、書類送検となったようだ。返す返すも痛ましい事故である。

抱っこで自転車、悲劇生んだ 子ども死亡、母を書類送検

朝日新聞2018年9月15日

電動自転車で走行中に転倒し、抱っこしていた当時1歳4カ月の次男を死亡させたとして、神奈川県警は14日、横浜市都筑区の保育士の母親(38)を過失致死の疑いで書類送検した。

自分の子を死なせてしまった母親やその周囲の人々の心中は察するに余りあるが、ネットでは予想通り、母親への批判の声が多くみられる。確かに、以下の状況をみる限り、落ち度があったことは否めない。

母親は7月5日午前8時25分ごろ、同区の市道で、次男を抱っこひもで前に抱え、左手首に傘を提げた状態で電動自転車を運転。過失によって転倒して次男の頭を強く打ち付け、死亡させた疑いがある。雨が降っていて母親はかっぱを着ていたが、提げていた傘が自転車のフレームと前輪の泥よけの間に挟まったことで、ハンドルが動かなくなり、転倒につながったと署はみている。

しかし、それだけで終わっていい話だとは思わない。

本件、状況からみて避けられる事故ではあっただろうが、この母親とてわざわざ子どもを危険にさらしていいと考えていたはずもない。そのあたりの事情は記事でもある程度書かれているが、母親は亡くなった1歳4か月の次男をだっこひもで前に抱え、2歳の長男にヘルメットをかぶせて前部の幼児用座席に座らせて保育園に送り届ける途中だったという。

状況がリアルに想像できる人も多いだろう。似た経験をした人もけっこういると思う。そういう人たちには、部外者が「なぜよりによって」と思うところも「そういうこともあるよね」とわかるのではないか。なぜ後部にもあった幼児用座席でなくだっこだったのか。なぜヘルメットをつけていなかったのか。なぜ傘を左手首にぶらさげていたのか。なぜ自転車だったのか。長男を幼稚園に送る作業を代わってくれる家族などがいてくれれば。もう少し時間に余裕をもつことができていたら。天気がよければ。道路状況はどうだったろう。他にも「もし」はたくさんある。それがすべて母親のせいだと言い切れるだろうか。

ルールを守りもっと気を付けていればと言うのはたやすい。しかし現状のルール自体、それを守れば安全というより、あくまである種の妥協として定められたものだ。親が子ども2人を同乗させて自転車に乗ることは神奈川県公安委員会の細則で認められている(幼児用座席以外でもひもで確実におんぶすればよいが抱っこについては規定がない由)がそれはその方法なら安全だからというより「せめてそのくらいは」といったたぐいのものといっていい。

そもそも自転車に幼児2人を乗せることを認めたこと自体、現実との妥協以外の何者でもない。児童又は幼児を自転車に乗せる際のヘルメット着用努力義務を定めた平成19年の道路交通法改正に先立つ2006年11月に財団法人日本交通管理技術協会がまとめた「自転車に同乗する幼児の安全対策及び乗車定員に関する調査研究報告書」では、利用者や専門家の意見、さまざまな安全試験などを行ったうえで「子どもの2人同乗を認めることは難しい」と結論づけている。

■1名のみの同乗を認める現行制度の維持を基本とする

・子どもの安全性を重視する観点から、幼児の同乗は認めるべきでないとの意見もあるが、子育て家庭にとって利便性が高く、生活上不可欠な移動手段となっていること、また、社会的背景による必要性が高まっていることなどから、原則として1名のみの同乗を認める現行制度の維持を基本とすることが妥当と考える。

(中略)

■走行安定性の観点から2人同乗は安全上認め難い

・走行安定性実験の結果、2人同乗は1人同乗に比べ走行安定性(方位角加速度)が特に低下することや、1人同乗については走行安定性の向上がみられた子供乗せ専用車についても2人同乗についてはその効果がみられなかった。このことから、現状では安全性の観点からは2人同乗を認めることは難しい。

そのうえで、ニーズが高く既に普及していることなどもふまえて、2人同乗が認められたわけだ。2人同乗を認めるにあたって、より安全な自転車をということで幼児2人同乗用自転車の基準が定められたが、その中でも比較的安全性が高いと思われる前2輪などの3輪自転車は普及していないしヘルメット着用率も高いとはいえない。それらも単に親たちのわがままとはいいがたいさまざまな事情がある。

こうした自転車の事故に限らず、何か望ましくないことが起きたとき、私たちはつい、その責任を誰に負わせればよいか、と考える。誰か最も確実に責任がありそうな人を見つけて、あいつが悪いんだ、あいつを罰しろ、といって留飲を下げる。しかしそれは、よくないことが起きたことによって自分が受けたストレスをそうやって解消しているだけの話であって、問題がそれで解決するわけではない。

多くの事故は、当事者の不注意などが直接のきっかけとなって起きるが、よくみればそこには、当事者が属する集団や組織の問題やより大きなレベルの問題など、さまざまな問題が重層的に併存していることがほとんどだ。それらをすべて即時に解決すべきという話ではないし実際のところそんなことは期待できないが、それが重要な問題であればあるほど、何かやれること、やるべきことはないかを粘り強く考えていくべきだろう。

これは、当該母親の責任を否定したり薄めたりしようというものではない。そもそも責任を「全部で100%のものを誰にどう分配するか」といった具合に考えること自体がまちがいだ。もちろん裁判などでこういう判断をすることはあってそれはそれで正しいが、私たちは裁判官ではない。この母親がどの程度悪いかを判断することなど求められていないし、それをするのは自分のストレスを解消するための利己的な行為にすぎない。

この母親を責めたら次の事故は防げるのか?そんなことはない。この母親とて事故を起こした際の状況が安全だなどとは思っていなかっただろう。危険をある程度は承知で、その他の事情との兼ね合いでしかたなくそうしたと考えるのが自然だ。

この母親と同じ社会で暮らす一般人である私たちが、亡くなった子どもの冥福を祈る以外にすべきことがあるとするなら、こうした悲しい事故が今後少しでも少なくなるように(完全になくすことは残念ながらできないだろうが)、誰が何をどうしたらいいかを考え、できることを実行していくことを考えることではないだろうか。

報道で伝えられた内容だけからでは詳しい事情はよくわからないが、それでも、より転倒しにくい自転車やヘルメットのさらなる普及(そのための経済的支援やレンタルシステムの普及なども含む。現在もそうした制度はあるがさらに充実ということ)、傘の取扱(そもそも傘をさして自転車を運転することは道路交通法違反だし、傘ホルダーなどで自転車に固定するのも違反になる地域がけっこうある)を含む安全教育の強化、保育園の送迎方法、自転車がより安全に走れる道路の設計や交通ルール、いわゆるワンオペ育児の解消など、検討に値する課題はいくつも見つかろう。

レトリックとしてはともかく、現実には残念ながら、人の命には値段がついている。コストがかかりすぎるという理由で有効な対策がとられないことはごくふつうに存在する。しかし、もしこの母親を責めたい気持ちがあるなら(既に自分自身で充分すぎるほど責めているだろう)、他にとりうる対策はないかという方向にも少しは注意を向け、しかるべき場で声を上げてみてはどうだろうか。かつて検討され却下された案も、もう一度引っ張り出して検討してみてもいいかもしれない。新しい技術や工夫で乗り越えられるかもしれないし、前は納得いかなかった案が今はリーズナブルなものに見えてくるかもしれない。レトリックでも何でもなく、子どもは社会の宝であり、この国の未来でもある。

なくすことはできなくても、こうした悲しい事故は少しでも減った方がいい。合掌。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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