人間として多くを学び、コーチとしての礎となった桜宮高での日々①。福島ファイヤーボンズ・森山知広
2013年1月、恒常化していたコーチによる体罰と暴言の連続が原因で、大阪市の桜宮高バスケットボール部のキャプテンが自殺したというニュースが出た。ワイドショーがこぞって取り上げるくらい、衝撃的な事件だったことは、多くの人たちの記憶に残っているはずだ。
事件発覚から1か月強が経過した2月14日、当時大阪エヴェッサのヘッドコーチを務め、現役選手の時にシカゴ・ブルズで3度NBA優勝を経験しているビル・カートライトが桜宮高を訪問。大阪市教育委員会の要請を受けたエヴェッサは、アドバイザリーコーチだった森山知広を外部指導者として派遣する。現在Bリーグ2部の福島ファイヤーボンズでヘッドコーチを務めている森山は、桜宮高の専任コーチになった時を「ポーンって野に放たれた感じでした」と振り返る。
プロ選手を目指したが、大学卒業後はプロチームのフロント業務を経験した後にコーチの道へ
1984年に福岡県で生まれた森山は、北九州市にある九州共立大八幡西高の出身。シューティングガードとしてプレーし、当時も福岡大附属大濠高と福岡第一高が強かったため、最高成績は県大会ベスト4だった。現在仙台大明成高を率いる佐藤久夫ヘッドコーチが准教授だった仙台大に進学すると、研究室の第1期生として卒業論文を提出している。
仙台大卒業後は、佐藤コーチのつながりで福岡レッドファルコンズに選手兼マネジャーとして入団することが内定していた。森山が大学生の時にbjリーグが誕生し、プロ選手としての間口が広がったことで、チャレンジしたいという思いがあったからだ。
ところが、天皇杯後にレッドファルコンズが解散という事態に直面。佐藤コーチとの話し合いで講師から教員という道筋を示されたが、森山は高校の先輩である川面剛(現九州共立大ヘッドコーチ)の誘いを受け、bjリーグでライジング福岡(現B2ライジングゼファーフクオカ)の立ち上げに関わるスタッフになった。
森山はクラブチームを作って母体の活動をスタートさせる一方で、bjリーグのチームだった大分ヒートデビルズの試合を福岡に誘致。さらに、ゲームオペレーション、クリニック、営業といったことなど、プロチームに欠かせない業務をこなしてきた。ライジングがbjリーグでデビューするまでの2年間に勤務した後、森山は2009年に大阪エヴェッサの親会社であるヒューマングループが運営するアカデミーの講師に転職する。プロ選手としてやりたいという思いを持っていた森山だが、この頃から本格的にコーチとしての人生を歩み始めた。
「10年間選手を経験するよりも、選手を引退してコーチになる人たちと並んでみても、コーチ歴10年の経験を持っていれば、有名なキャリアではないかもしれないけど実力がつくじゃないかと思って、コーチを目指すようになりました」
選手を育成するアカデミーの講師を3年間務めた後、4年目にアドバイザリーコーチという肩書きで、森山は大阪エヴェッサのトップチームと関わりを持ち始める。低迷していたチームのテコ入れでカートライトをヘッドコーチとして招聘してから1か月もしないうちに、森山はオーナーからの指令で桜宮高でコーチを務めることになった。ウィンターカップ大阪府予選の準決勝、大阪学院に3点差で惜敗までの約8か月間である。
記者会見場に入った瞬間に只事ではないと実感
記者会見が行われる2月14日、大阪エヴェッサの関係者はタクシーで桜宮高に向かった。校内に入る時から多くの報道陣が張り込む異様な状況だったが、実際に記者会見場へ入った瞬間、森山はとんでもない状況なんだと改めて認識する。
「なんとなくお客さま的な感覚が自分の中にあったけど、記者会見の場に入った瞬間に只事じゃないなと思ったんです。芸能人の謝罪会見かと思ったくらい、長机の前に記者が座って下から写真を撮られ、椅子に座っている記者もいて、その後ろにテレビカメラが5台くらいあった。そんな数の記者会見に立ったことがないし、そこに入ってから自分でやれるのかなみたいな感じになった記憶があります」
桜宮高の部員たちとの初顔合わせとなった日、大阪エヴェッサはカートライトが主体となってのクリニックを開催。選手が体を動かしながら、バスケットボールは楽しいということを意識させるような内容だった。しかし、部員たちは事件発覚から1か月以上活動を停止させられており、“全部自分たちのせいだ”という思いも抱え込んでいた。
桜宮高は市立ながら体育科があり、問題を起こしたコーチが男女一緒に指導。体育館が2つあり、バスケットボール部は常に練習できる恵まれた環境があった。しかし、事件がきっかけで部長だった教諭や若いアシスタントコーチもチームを去ったため、森山は一人で桜宮高の男女両チームを指導することになる。
大阪エヴェッサのアカデミーでコーチをしていたころは、選手たちと一緒に体を動かしながらの指導を行っていた森山。体罰が普通にあった高校時代を過ごしたこともあって、「なんでやらないの」「帰れ!」「やらなくていいよ」といった言葉を投げつけることも多かったという。
だが、部員たちとの初顔合わせで「感覚とかマインドを180度変えなければいけない。自分は何もわかっていないし、これじゃ何も教えられない」と思った森山は、今までと同じ指導を桜宮高でやるわけにはいかないと認識。大学院で心理学を専攻していた夫人に相談しながら、部員たちにどう接するかを考えるようになっていく…。