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祝! 3000本安打。21年前、2年目の"イチロー"はなにを考えていたのか? その1

楊順行スポーツライター
1995年発売の雑誌『インタ』。懐かしい名前が見えます

「僕はサラリーマンじゃないんです。同年代の友人たちはスーツを着て会社に通っているけど、僕は違う。入団1年目の秋のキャンプで、あるコーチと意見が対立した。「オマエの打ち方は邪道だ。オレの言うとおりに打ってみろ」。もし入社1年目のサラリーマンだったら、コーチという、いわば上司の命令に逆らうことはなかなかむずかしいでしょうね。

最初は、言うことを聞かなきゃマズイかなと思って、言われるままにフォームをいじったんです。だけどだんだん、このままでは自分の特徴が消されてしまうと感じてきて、結局はアドバイスを聞かずに次のシーズンに入った。それである日そのコーチが「オマエ、オレの言うことを聞かないのか」と言うんで、「僕は自分でやらせてもらいます」って言ったんです。

コーチというのは、毎年代わる可能性があるじゃないですか。でも僕の選手生活はコーチが代わっても続くんだから、コーチの言うことに合わせて変えていったら、いつまでたっても自分が確立しない。だから自分のやり方を貫いたんです。サラリーマンなら上司についていけばいいけど、僕はサラリーマンじゃない。この世界は、自分さえしっかりしていればやっていけるんです。逆に、ハイハイとなんでも素直にアイソをふりまいて、上手に世渡りしたからって結果が保証される世界じゃない。そうやってコロコロと自分を変えていってしまったら、僕の持ち味を評価してくれていた人たちにも申し訳ないし、第一、あとで後悔しますよ。僕は後悔したくなかった」

本名・鈴木一朗。1992年、愛知県の強豪・愛工大名電高からオリックスに入団した。アイデアマンの仰木彬監督のもと、登録名を「イチロー」としたのがきっかけだったように、94年のシーズン、にわかにその才能がきらめき始めた。プロ3年目にして史上初の夢のシーズン200安打を達成(最終210安打)し、打率もパ・リーグ過去最高の.385を記録。MVP、首位打者などの数々のタイトルを獲得した超高性能安打製造機「イチロー」は、プロ野球の枠を超えて94年の流行語大賞にも選ばれた。独特の振り子打法は、時の総理大臣もマネをするほどで、日本列島にイチロー現象とも言うべきムーブメントを巻き起こした。

負けて悔し涙を流したことはない

「挫折……覚えがないです。もしかしたらあったのかな。だいたい、試合に負けて悔しくて泣いたことなんてないですからね。

高校1年のときに、「野球をやめたい」と言ったことがある、ってなにかに書いてありましたけど、別に深刻なものじゃなかったんです。世間ではかなり深刻化されていますけど、全然そんなことはない。寮から家に帰ったとき、ちょっと父親(宣之氏)を困らせてやろうかというくらいのイタズラ心で言ってみただけですよ。別にテレているわけでも、かくしているわけでもないんです。ホントに、挫折とかなんにも深刻なことないですもん。

高校時代は野球が楽しくてしょうがなかった。だってなんでも自由自在じゃないですか。ヒットなんかいつだって打てるし、狙えばホームランだって打てる。さすがにいま、こうして仕事としてやっていると楽しいとばかりは言い切れない……かなぁ。しんどいときは、「これは仕事なんだ」と割り切るようにしてますけど。

だいたい努力とか根性とか忍耐って、あんまり好きじゃない。やって当たり前のことだと思うんですよ。これだけ努力しましたよ、と口に出して自慢するんじゃなくて、心のなかに秘めておくものだと思うんだけど。そんなこと口に出さなくてもいいのに、って感じでしょ。それに、同じことをやっていてそれを努力と感じる人もいれば、そうじゃない人もいるんですよ。

ただ、高校時代は寮生活でしたから、監督は礼儀にはことのほか厳しかった。高校でのしつけは、いまでも体に染みついていますよ。だから打撃練習でも、打席に入る前には「お願いします」、終わったあとは「ありがとうございました」、いまでも必ず礼をする。これは、習慣です。それと、人と話すときは相手の目をじっと見る。だって高校時代は、先輩にしかられているときも目をそらさずに「スイマセン」、「ハイ、ハイ」と謝らなきゃいけなかったんですよ。いつだったか、怒られているうちにだんだんむかついてきて、しまいにはガンをつけるようににらみつけちゃって、「なんだ、その目は」ってますます怒られたことがありましたね。

それから僕は、町を歩いていても、すれ違う人の顔は見ませんよ、絶対。失礼だと思うから。だから、先輩が横を通ったって気づかない。今年の自主トレでも、同じ宿舎に阪神の和田(豊)さんがいらしてたんですが、フロントで隣にいるのに気がつかない。声をかけられて、初めてわかったんです。それを失礼だとか、注意力散漫だと思われたとしても、僕は別にかまわない。逆に、町中で僕に気づく人って、こっちの顔を見ているわけでしょう。僕の礼儀の物差しでは信じられませんね。

そういう意味からすると、僕は傍若無人なミーハーが大きらいなんです。口のきき方を知らなくて、「サインくれ」と言ったり、「ありがとう」を言えなかったり。子どもが礼儀を知らないと怒りますよ、僕。そのままにしておいたら、その子が先々困るじゃないですか」(続く)

*所属などは1995年当時

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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