【べらぼう】蔦屋重三郎が生きた江戸中期は暗黒時代だった?彼の成功を支えたイケメン政治家とは?
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。江戸時代中期から後期に敏腕プロデューサーとして活躍し、時代の寵児となった蔦屋重三郎(=蔦重・演:横浜流星)。彼の遺した功績と鮮やかな生涯を描きます。
江戸時代は約260年。蔦重が生きたのは、中期から後期にかけての天下泰平の世です。戦乱はなくとも、貧しい庶民が生きぬくことは日々戦いでした。
蔦重が生まれた1750年は、8代将軍吉宗が大御所として実権を握っていました。
翌1751年に吉宗が亡くなると、幕政は混乱期に突入していきます。蔦重はその混乱の中で民衆の心をつかみ、メディア王としてのし上がっていくのです。
◆冒頭に描かれた火事と鬼平
ドラマ冒頭に描かれたのは1772年の「明和の大火」です。江戸三大大火の一つで、死者・行方不明者合わせて2万人近くにのぼりました。
原因は放火。下手人は火付盗賊改方頭・長谷川宣雄に捕縛され火刑に処されました。
ドラマには、宣雄の息子・宣以(のぶため)が登場。この親子の通称はどちらも長谷川平蔵です。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』で有名な「鬼平」は息子宣以の方。
刀類を預かろうとした蔦重を叩きのめし、花魁道中の花の井(演:小芝風花)に一目ぼれして「やらせろ」と女郎屋で大騒ぎしたのが、鬼平こと長谷川平蔵宣以(演:中村隼人)その人です。
鬼平の若い頃は夜な夜な遊郭に通い詰めた遊び人。父の急死で家督を継ぎ、火付盗賊改方加役となります。
鬼平は旗本などの同僚から「山師」と呼ばれていましたが、庶民からは人気がありました。
火付盗賊改方といえば、火付けや盗賊団や賭博などの悪党と渡り合わねばならぬ職務。現代なら警察のマル暴(暴力団が絡む事件の捜査を担当する課)のようなもので、やわな坊ちゃんには務まりません。
「山師」鬼平は今後、どのように蔦重に関わってくるのでしょうか。
※この先はネタバレになるため、ご注意!
◆蔦重が生きた「田沼時代」「寛政の改革」ってどんな時代?
1.8代将軍吉宗と享保の改革
蔦重が生きたのは、政治的には「田沼時代」「寛政の改革」と呼ばれた時代です。田沼時代の前に、8代将軍吉宗がおこなった「享保の改革」について軽く述べます。
8代将軍吉宗は自ら幕政に関わり、享保の改革で破綻寸前だった幕府の財政再建をおこないました。
彼の政策の中心は米による税収を増やすこと。そのため「米将軍※」と呼ばれました。(※テストで「暴れん坊将軍」と答えた中学生がいたとか…)
従来、享保の改革は「善政の代表」とされてきました。しかし幕府財政の安定など一定の効果はあったものの、課題も残しています。年貢増で負担の増えた農民による一揆が増え、緊縮財政で経済や文化が停滞、人口の増加も頭打ちとなりました。
吉宗の子・9代家重の時代はこれといった改革がなされず、幕政はさらに停滞します。蔦重が少年時代を過ごしたのがちょうどこのころ。蔦重が頭角を現すのは、次の10代家治(演:真島秀和)の時代です。
2.田沼時代①賄賂政治家の代名詞・田沼意次の実像とは?
10代家治のもとで権力を握ったのが老中の田沼意次(演:渡辺謙)だったため、この時期は彼の名前を取って「田沼時代」と呼ばれます。
田沼意次は「賄賂政治の代表」として長い間「歴史上の悪役」に甘んじていました。しかし近年彼の再評価が図られています。
意次が老中になったころは、農家からの年貢収入は減少し幕府の財政難が続いていました。
先見の明があった意次は「これからは商業の時代だ!」と商業重視(重商主義)の政策にシフト。特権(独占)を認めるかわりに商人からも税を徴収した結果、経済は活性化します。
意次にとっての不運は、田沼時代が天災続きだったこと。江戸時代最大の飢饉「天明の大飢饉」によって物価が高騰。生活苦への不満が意次に対する批判へとつながります。
旗本の佐野政言による嫡男の田沼意知(おきとも=演:宮沢氷魚)殺害事件は不幸の序章。その2年後に将軍家治が亡くなり、意次は失脚。悲惨な末路を迎えます。
老中辞任後、反田沼派により隠居謹慎を命じられ、屋敷・財産の没収や相良城の破却、石高3万7000石を没収され1万石に減封。孫の意明(おきあき)に家督を譲り、意次は失意のうちに亡くなりました。
3.田沼時代②自由で華やかな田沼時代と蔦重
意次について調べると、なぜか外見について書かれたものによく出くわします。どうやら「イケメン」説があるようです。大奥で人気があったという説も。(真偽不明)
それはさておき、意次は誰もやったことのなかった革新的な改革を進めた人。ドラマ内でも「吉原を助けてほしい」という蔦重に「自分でやれるだけのことはやってみたのか」と詰め寄ります。
ドラマの中の蔦重は、この言葉によって覚醒しました。意次と蔦重はどちらもイノベーターで、いわば似た者同士。どこか通じ合うところがあったのかもしれません。
田沼時代は政治腐敗した「暗黒時代」とみなされることがあるものの、学問や文化的には自由でした。意次は蘭学を奨励し、発明家として高名な平賀源内(演:安田顕)のパトロンだったとされています。
田沼時代の町民は、華やかで自由な時代を謳歌しました。おそらく世界でも類を見ない「幸福な庶民」だったのではないでしょうか。
この時代だからこそ、蔦重は新しいことをはじめられたのです。
それまで上方(京都・大坂)のものだった出版文化。それが江戸のオリジナルな文化として開花したのは蔦重、そして意次の存在なくしてはありえなかったでしょう。
4.寛政の改革①厳しすぎる清き白河
意次の失脚後、次の11代将軍家斉のもとで老中となったのは、反田沼派の筆頭である白河藩主・松平定信。
定信は8代吉宗の孫で御三卿筆頭・田安家の出身で白河藩の養子となりました。
定信は「天明の大飢饉」で荒れた白河藩の立て直しに成功。重農主義を取り福祉政策に力を入れた結果、領内から餓死者を一人も出さなかったと伝わります。
その手腕を買われて老中となった定信は、吉宗の「享保の改革」を理想とした懐古主義的な「寛政の改革」に着手します。
定信は自ら倹約につとめ、庶民救済のために数々の福祉政策や農村対策をおこないましたが、倹約令があまりに厳しすぎたため、不人気でした。
あれほど批判されていた田沼時代を懐かしがる空気まで生まれます。
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
と狂歌に読まれました。
こうして定信はたった6年で失脚してしまうのです。
改革についてザックリとまとめてみました!
5.寛政の改革②「寛政の改革」による弾圧と蔦重
松平定信の「寛政の改革」は蔦重および出版事業にとって「冬の時代」。不況の原因は風紀の乱れにあると考えた定信は、厳しい思想統制をおこなったのです。
定信は上下関係を重んじる儒教の「朱子学」のみを正学とする「寛政異学の禁」を発令。蘭学者を追放してしまいます。
服装の自由や混浴なども禁じられて、下級武士や町民の間で不満がたまっていきます。
このころの蔦重は多数の人気戯作者や狂歌師、絵師などを抱え、話題作を生み出していました。市井の人々の不満を代弁し茶化した風刺作品が次々とベストセラーになります。
幕府の弾圧はさらに強化。1790年に出版統制令が出されると、身の危険を感じた戯作家たちの中には謹慎や廃業する者もあらわれます。
翌1791年には人気絶頂の山東京伝が書いた洒落本3作が摘発、発禁処分になりました。蔦重は身上半減(財産もしくは年収の半分を没収)の重過料が課され、東伝は手鎖五十日の刑に処されます。
弾圧の結果、蔦重は戯作の出版を控えるように。しかしこのままでは終わりません。
浮世絵に力を入れて、喜多川歌麿を大々的に売り出し、歌麿の美人画は一大ムーブメントとなります。1794年には謎の絵師・東洲斎写楽を世に送り出しました。
しかし蔦重は1797年47歳で没。死因は脚気だといわれます。
自由な田沼時代に江戸の出版業界を牽引し、寛政の改革の弾圧に抵抗しながら蔦重はその生涯を終えたのです。
◆主要参考文献
「江戸の仕掛人 蔦屋重三郎」(城島明彦)(ウェッジ)
「蔦屋重三郎と江戸文化」(伊藤賀一)(Gakken)など