幼い頃の豊臣秀吉は、天涯孤独だったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が関白として権勢を振るうようになった。秀吉の出自については謎が多いが、天涯孤独だったという説があるので、検討することにしよう。
寛永8年(1631)に成立した、竹中重門(重治の子)の手になる『豊鑑』という史料がある。重門が若い頃に多くの人から情報を得ていたことは、たしかであるといえるが、あくまで後世に成ったものなので、この史料の扱いには慎重でなくてはならない。
『豊鑑』には、秀吉の父祖について「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが・・・」、「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」と実に興味深いことを書いている。
「あやし」は「怪し」、つまり「得体が知れない」と考えるべきで、イコール卑賤を意味したと解釈できる。この点をもう少し詳しく検討してみよう。
天正18年(1590)、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との戦いが端緒となり、惣無事という政策基調の観点から、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏直に宛てた宣戦布告状の中で、自ら「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て」と記している(『言経卿記』)。
わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、先述した「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもないだろう。
これまで秀吉の父の存在はあやふやな記述しかなかったが、幼少期に亡くなったという事情が影響していたのである。秀吉は幼くして、孤児になった可能性が非常に高い。
毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉していた天正12年(1584)1月、秀吉を評して「(秀吉が)若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、物乞いをしたこともある人物だった」と記している(『毛利家文書』)。
恵瓊は外交僧を務めるだけのことはあって、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が物乞い同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。
恵瓊は情勢分析にも優れており、早くから輝元ら毛利氏首脳に秀吉と戦うことの不利を説いている。そうした点を踏まえると、非常に信憑性が高い情報であると考えてよい。決して交渉の場で優位に立つ秀吉に対して、恵瓊が負け惜しみで記した一文ではないのである。
そうなると、若い頃の秀吉が物乞い同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通認識されていた事実だったと考えてよいのではないか。ともあれ、秀吉の父母については疑問点が多く、天涯孤独な孤児だった可能性があることを指摘しておこう。
主要参考文献
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社歴史新書y、2013年)