【深掘り「鎌倉殿の13人」】承久の乱前夜。血祭りに挙げられた「のえ」の兄・伊賀光季とは
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎えている。状況の乱前夜、最初に血祭りに挙げられたのが「のえ」の兄で、京都守護だった伊賀光季である。光季とはいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
伊賀光季は生年不詳であるが、幕府の御家人だった朝光の子である。朝光の本姓は藤原氏だったが、のちに伊賀守に任じられたので、そのまま「伊賀」に改姓したといわれている。
光季の経歴は、なかなか華麗である。光季の妹は菊地凛子さんが演じる「のえ」(伊賀の方)で、北条義時の妻となっていた。このことが光季に幸運をもたらしたといえる。有力者と姻戚関係を結ぶことは、その後の栄達につながったのである。
建暦2年(1212)、光季は常陸国内に地頭職を与えられると、その後は左衛門尉、検非違使に任じられた。建保7年(1219)2月には、大江親広(広元の子)とともに京都守護に任じられ上洛した。
義時が光季を京都守護に任じた理由は、朝廷対策だった。信頼できる身内を京都に送り込んだのである。京都守護は幕府の要職で、朝廷と幕府の連絡役だけではなく、京都の御家人の統率、洛中での裁判や警護を担当した。
とはいえ、光季が京都守護に就任したのは栄光のはじまりではなく、朝幕関係が悪化する中で、悲劇の序章だったともいえる。
承久3年(1221)5月15日、後鳥羽はついに義時追討の兵を挙げた。後鳥羽は藤原秀康を通して、京都守護の2人に味方になるよう伝えた。すると、親広のほうは何ら躊躇することなく、後鳥羽方に与した。身の危険を感じたのだろう。
ところが、光季は後鳥羽の要請に決して応じることがなかった。すると後鳥羽は、ただちに大内惟信・三浦胤義らの軍勢を光季のもとに送り込んで、討伐を命じたのである。光季の軍勢はわずか100もおらず、勝敗の帰趨は明らかだった。
結局、光季は子の光綱とともに朝廷軍と戦ったが、しょせんは多勢に無勢であっけなく敗北した。2人は屋敷に放火して、無念にも自害して果てたのである。
光季はあえなく自害したものの、同時に後鳥羽が挙兵したことを鎌倉に知らせることを忘れていなかった。この凶報を受けた幕府は、ただちに対策を講じたのである。