映画的には良いのに、人として怒りが込み上げてきた『春の祭典』
悪い映画を、好きになるのは難しい。
まずテーマがありきたり。次にお話が破たんしていて辻褄が合わず、何が言いたいのかさっぱりわからない。加えて登場人物のキャラクターが定まっておらず、動機も行動原理もわからない。さらに、役者の演技も酷くて感情を伝える能力がゼロ……。
こんな映画を見ると、まず“なぜ?”の連続からスタートし、次に“わけがわからん”になり、ついに物語を追うのを放棄して、あくびを噛み殺して時計に目をやりつつ、周りを見回して“みんな熱心に見ているなあ”と感心しながら、晩御飯のメニューを考え始めたりする。
“あーあ、時間とお金の無駄だった”
こういうことはしばしばある。私は事前情報を一切入れないから、他の人よりも失望の頻度は高いかもしれない。
■主演女優は設定にぴったり
だが、良い映画だからと言って好きになるとも限らない。
その典型例が、この『春の祭典』(スペイン語原題:La consagración de la primavera)である。
テーマは「障害者の性」。ありきたりではない。
お話は破たんしていない。
主人公の女性の行動や発言が揺れていて矛盾するところもあり、動機や行動原理が一貫していない。だが、それは18歳で1人で都会に出て来て大学生活を始めた彼女の、不安とか躊躇とか動揺の表れと解釈できる。よって、動機不明瞭で、次に何をするか予測不可能でもまったく構わない。むしろそうではないといけない。
3人の主要登場人物の演技がまたいい。
映画初主演となるバレリア・ソロージャ。
まず容貌がぴったりだ。痩せていて、誰の目も引くこともなく、普通にその辺にいそうで、いかにも男性に奥手そうで、内気そうで、垢抜けない。田舎を離れていきなり与えられた自由に戸惑っている感が、視線、動き方、姿勢、しゃべり方のすべてに出ている。
■共演陣も万全である
共演のテルモ・イルレタ。
脳性麻痺で車椅子を離せない。彼女に振り回されながらも、寛大なお兄さんのような視線で振る舞う演技が良い。私なら絶対に怒るだろうな、という場面でも笑みを浮かべる。それは人間の器が大きいからで、そこは脚本通りの演技なのか、彼の人柄なのかはわからないが、多分、後者なのだろう。
「犠牲者扱いは断固拒否する」
自分を笑うことを知り、周りを笑うことを知る発言から、そう判断する。
そして、エンマ・スアレス。
スペインを代表する大女優。昔は性格の強さと可愛らしさの両面を兼ね備えた役が多かった。今は苦労する、戦う、悲しむ役が多い。歳を取っても貫禄は良い意味で出ず、上品さは変わらない。
障害者の性に関するある団体のホームページを覗いていたら、息子の性について語る母親のビデオが上がっていて、エンマ・スアレス演じる母の雰囲気と似ているのに驚いた。役作りで面会したりしているのかもしれない。
サン・セバスティアンに毎年のように来ていて、席を探していて「そこ、空いてます?」と尋ねた相手が顔を上げたら彼女だった、ということもあった。
■この監督とは合わない…
テーマは良い。お話は一貫している。人物設定もしっかりしている。演技は素晴らしい。お話を語る映像手法にもミスはない。リズムも良く、間延びはしない。
なのに。見終わった後、腹が立った。
これはひとえに、主人公の問題行動ゆえ。“人としてそれはないだろう。責任取れよ!”と言いたくなった。クライマックスに近づくにつれて、“お前やりそうだな、やるなよ”と心配していたのに、案の定それをやりやがった!
主人公の行動に怒った。つまり、私はお話にどっぷりはまっていた――ということは、この作品はメディアとしての役割をきっちり果たしていたわけで、悪い映画ではない。
だが、私はそのメッセージが嫌いだ。
どんなメッセージで、なぜ嫌いかはネタバレになるから書かない。
フェルナンド・フランコ監督の経歴を見ていて、大嫌いな作品の名を見つけた。この人とは合わないのだろう。
好き嫌いの問題なので、好きな人もいるに違いない。良い映画だからおススメもできる。だが、いつも以上にみなさんの感想が気になる。
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※写真提供はサン・セバスティアン映画祭