学生と大麻 大学が行なうべきこと
■逮捕者が続出
大学体育会の寮内から大麻や覚醒剤が発見され、逮捕者も出た。今後、さらに捜査が進み、大きな問題に発展する予感がある。
大学生の薬物問題は今に始まったことではない。かつて関西の私学を中心に大学生の薬物問題が表面化したこともあった。
このような問題が起こるたびに大学が取る措置として、大麻に関係した学生の処分はもちろんのこと、部の活動自粛、あるいは最悪廃部というところまで行くかもしれない。そして学内における「薬物教育」の充実などが行なわれてきた。今回も同じような経過が繰り返されることだろう。
犯罪行為であるから何らかの処分ということになるのはやむをえないと思う。しかしこのような事件が起こって大学に問われているのは、大学じたいの薬物問題に対する認識である。
■大学は薬物問題の再認識を
薬物問題とは、単に法律や政策の問題ではなく、その背後には、薬物と人に対するその影響についての文化的解釈の問題が広がっている。それは、薬物と文化や習俗に関する因果関係、道徳性、危険性、またそのリスクの捉え方に対する理解の問題である。人の喜び、快楽、苦痛や恐怖といった、われわれの経験についての洞察を促すのである。
薬物に対する規制が本格化したのは、この数十年のことであるが、それは薬物を犯罪性や違法性と結びつけるという強力な考え方を生み出した。薬物に対するこのような見方は、映画やメディアなどを通じて、われわれの集団意識の一部となってしまった。つまり、われわれが薬物の問題を考えるときに、その違法性と犯罪性の論理が自明の前提となってしまったのである。
薬物問題を理解するときにもっとも重要なことは、それを「有害と無害」、「道徳と不道徳」、「合法と違法」、「法執行と犯罪」など、要するに「善と悪」とのあれかこれかの単純な二項対立としてとらえることの誤りである。
世界的な条約によって、薬物問題を主導する国々は、世界中の法令を「植民地化」し、薬物問題を法律問題として定着させてきた。しかし現在ではこの論理が地域によって勢いを失ったり、また逆に力を得たりして、必ずしも一枚岩ではなくなってきている。薬物政策は、世界的には流動的な状況にある。
たとえば、薬物犯罪に対する法定刑として死刑が残っている国が三十数カ国あり、毎年三桁の数の死刑が執行されている。世界中で薬物犯罪によって死刑を言い渡された3000人以上の死刑囚が今も拘禁されている。他方、大麻に関しては規制を緩める国や地域が増加しており、昨年はアメリカのバイデン大統領が、従来の懲罰的対応(罰による懲らしめ)は誤りだったとして、今後は薬物問題を医療の問題としてとらえることを表明している。
薬物問題は、グローバルな問題なのであり、自国の問題として、他国の歴史や文化的空間で薬物がどのように機能してきたのか、また現在どのような状況にあるのかを知ることが重要なのである。
要するに、「善と悪」、「道徳と不道徳」といった一般的に分りやすい二分法は、薬物問題の本質をとらえることに弊害ですらある。薬物問題は、法律、政策、文化、習俗など、それぞれの国や地域の世界観の複雑な集合体の問題として考えるべきであり、しかもそれは文脈や時代によって異なる形で現れる歴史的な性格をもっているのである。
■まとめー提言―
一部の若者にとっては、「薬物」の消費について確かに魅力があり、大胆で反抗的なもの、いわゆるクールなものとみなされる傾向がある。
しかしこれに対して従来どおりの「ダメ。ゼッタイ。」の見方に基づいた、強制的な薬物教育を行なうことは逆効果であり、マイナスの効果しかない。
大麻に関していえば、大麻を肯定的にとらえることの何が誤りなのかについて、正確に広報することが大事である。中学生でもネットを少し検索すれば、世界の大麻に関する考え方が大きく動いていることは分る。大麻の有害性(犯罪性)について医学的な観点から批判的に解説した記事も多い。そのような中で大事なことは科学的根拠にもとづいて、中立的に薬物問題を教育し、啓蒙することである。従来のように「大麻はダメ」と声高に言っても、それは何の解決にもならない。大麻を科学的に扱うことは、イデオロギー優先の現在の状況を終わらせるために極めて重要なのである。
大学はさまざまな専門家から成り立つ「知の宝庫」である。今こそ、法律学や政治学、哲学、倫理学、文化人類学、歴史学、医学、精神医学、薬理学など、専門家による共同研究を組織し、その成果を学生に対する薬物教育に活かすべきである。大学が「道徳的十字軍」になることは、間違っている。(了)