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上を目指す実直な日本ランカー

林壮一ノンフィクションライター/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
撮影:筆者

 日本スーパーフライ級8位の吉田京太郎は、6人きょうだいの末っ子として1997年4月28日に福岡県福岡市で誕生した。

 「兄が4人に姉一人。次兄と三兄がボクシングをやっていたので、僕も中1の夏休み明けからジムに通い始めたんです。ちょっと野球部に在籍したのですが、ダラダラと長いだけの練習が嫌で……向いていなかったんでしょうね。集団競技よりも、全て自分の責任となる個人競技の方がいいなと感じました」

撮影:筆者
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 中学3年でU15の大会に出場するも、地区予選の2回戦で敗れる。吉田は、この悔しさをプロで晴らすと、高校へは行かずにプロボクサーになる!ことを宣言した。

 「ですが、次兄の幼馴染みで東福岡高校のボクシング部から立教大学に進んだ方に『アマチュアを経験してからでも遅くない』とアドバイスされたんです。そのうえ、母校の監督に僕の話をしてくれ、入学することにしました」

 進学校である東福岡高校は、いかに優秀な成績を収めている部活動でも、赤点の多い学生は練習を休んで勉強させていた。

 「まぁ、僕が進んだ進学コースは一番レベルが低かったので、提出物さえきちんと出しておけば何とかなりました。2回くらいしか赤点を取らずに済みましたね(笑)。高校2年の春の選抜大会で全国3位になり、近畿大学からスカウトされたんです。親には『行けるなら大学に行きなさい』と説かれましたし、ボクシングってそれ程長くやれる競技じゃない事を理解していましたから、進学を決めました」

撮影:筆者
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 2009年に2名の部員が強盗致傷事件を起こしたことで、廃部に追い込まれた近大ボクシング部だが、立て直しを図っている時期だった。

 「僕は2016年入学です。大学時代は伸び悩みました……レギュラーになったのは4年になってからですし。ただ、2~3年の頃、何だかんだでボクシングを続けているっていうことは、自分はこの競技が本当に好きなんだなって思えたんですよ。だから、卒業後は迷わずプロの道を選択しました」

 上京し、幾つかのジムを巡るが、「是非」と言ってくれたのは渡辺均・ワタナベジム会長だけだった。

 「京口紘人さん、谷口将隆さんを始め、軽量級に強い選手がいますし、重岡優大とは昔からの友人でしたから、一緒に頑張れるなと感じました」

 2020年の3月に上京し、警備会社の寮に住みながらボクシング漬けの日々を送っている。

撮影:筆者
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 「2021年7月のデビューまで、1年以上かかりました。コロナ禍でなかなか試合が出来なかったんですよ。交通誘導をしながら、とにかく気持ちを切らさないようにと考えていました」

 目下、7戦4勝(1KO)3敗の吉田だが、5戦目の8回戦で判定勝ちして日本ランキング入りを果たす。6戦目(8回戦)はスプリットディシジョンで落としたが、一人のジャッジが6ポイント差で吉田の勝ちと採点したように、白星を挙げていた筈の内容だった。

撮影:筆者
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 「正直、負けたとは思っていません。ただ、学んだことも多かったです。自分がポイントを取ったと思っていても、優劣は他人が決めますよね。ディフェンシブなボクシングではなく、ダウンを奪うとか明確に、確実にリードしていると見せなければ。

 基本的なスタイルは変えようがありませんが、精神面でもアグレッシブさを出していきます。次の試合では、進歩した自分の姿を見せられるように、毎日練習しています」

撮影:筆者
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 直近のファイトは1ラウンドKO勝ちを飾った。

 渡辺会長は言う。

 「とにかく真面目で、性格のいい青年です。交通誘導もしっかりやっているでしょうね。ジムとしては、彼にチャンスを作ってやりたいです」

 次戦は上位ランカーとの対戦を希望する吉田。不可解なあの判定負けを、未来にどう結び付けるか。

ノンフィクションライター/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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