【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の叔父・源行家は口先だけの男だったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第13回では、源頼朝の叔父・源行家が木曽義仲のもとを訪れ、盛んに挙兵を促していた。この間の事情について、深く掘り下げてみよう。
■連戦連敗だった源行家
源頼朝が東国経営を進めるなかで、同じ源氏の面々と協力関係を結ぶことに腐心した。甲斐の武田信義とは、最初こそ微妙な関係だったかもしれないが、やがて良好な信頼関係を構築することに成功した。源氏の棟梁として、認められつつあったのである。
ここで問題になるのが、源行家だ。行家は頼朝に決起を促すが、断られると独自に行動した。治承5年(1181)、行家は義円(頼朝の弟)とともに墨俣川の戦いで平家と交戦したが、あっけなく敗北を喫した。行家はうまく逃げたが、義円は討ち死にした。
行家は盛んに合戦を勧めるが、自身はほとんどの戦いで惨敗し、実績がほぼ皆無だった。それゆえ、頼朝は行家を頼りにしていない節があり、行家は孤立して転戦していた。しかし、行家には十分な兵力がなかったのだから、勝てる見込みは乏しかったに違いない。
行家は以仁王の令旨を受け、打倒平家に尽力したが、何せ実力が伴わなかった。連戦連敗では説得力がない。むしろ、打倒平家の活動家として、各地で出陣を促すのが得意だったのだろうか。木曽義仲のもとに向かったのも活動の一つだ。
墨俣川の戦いで敗戦後、行家は畿内に出没し、そして北陸道にも姿を見せた。神出鬼没と言えば聞こえはいいが、あまりの無計画さ、節操のなさに、頼朝も辟易としていたかもしれない。平たく言えば、行家を「口先だけの男」と思っていたのかもしれない。
■もう一人の叔父・志田義広
頼朝にとって気掛かりだったのは、もう一人の叔父・志田義広である。義広は常陸南部を本拠とし、佐竹氏を討伐した際には、頼朝のもとに馳せ参じた。大河ドラマには登場しないが、頼朝にとって力強い味方だったのだ。
頼朝の勢力が東国全域に広まると、多くの豪族は頼朝に帰伏した。下野の足利俊綱のように、頼朝に反抗的な態度をとる者は、ただちに討伐された。頼朝の威勢は徐々に浸透したのである。
しかし、すべての東国の豪族が頼朝に従ったのではなく、いまだに抵抗する勢力もあった。義広はそうした「反頼朝」の勢力を糾合し、寿永2年(1183)に反旗を翻したのである。おそらく義広は、頼朝の独壇場を阻止したかったのだろう。
義広が決起したとき、下野の小山朝政は義広から味方になるよう誘われたが、それを断り、謀略でもって義広を打ち負かした。その結果、義広は木曽義仲に身を寄せることになったのである。義広と行家が義仲のもとに向かったことは、のちに面倒なことに展開した。
■むすび
頼朝は東国で徐々に存在感を示し、諸豪族を帰伏させることに成功した。それは、同じ源氏の一族であっても同じだった。しかし、行家や義広のように、頼朝とそりが合わない者がいたのも事実である。2人は義仲のもとに向かったので、頼朝との対立を深める要因となった。