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頼家も実朝も苦しんだ「天然痘」人類はどう克服したのか

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:アフロ)

 いわゆる「サル痘」が話題になっているが、よく似たウイルス感染症に「天然痘(痘瘡・疱瘡、Smallpox)」がある。天然痘の根絶は1980年だが、それまで人類はこの病気と壮絶な戦いを続けてきた。天然痘はどのようにして根絶されたのだろうか。

実朝の顔に残った痘痕

 源頼家が天然痘にかかったのは1192(建久3)年、10歳のときで、源実朝が天然痘にかかったのは、17歳、1208(承元2)年2月のことだった。実朝の天然痘について『吾妻鏡』には「将軍家御疱瘡に依りて御出無し」とか「将軍家御疱瘡、頗る心神を悩ましめ給ふ」とか「御疱瘡の跡を憚らしめ給ふに依りて御出無し」などと書かれている。

 天然痘は、天然痘ウイルスによる感染症で、飛沫感染(接触感染、空気感染の危険性もある)によりヒト・ヒトに感染する。潜伏期間は7日から16日でおよそ12日とされ、発症前の感染力はないと考えられ、発症後4日目から6日目が最も感染力が強くなり、発疹がなくなるまで感染力があり、隔離治療が必要となる。

 症状として、まず39度以上になる急激な発熱、頭痛、体全体の痛みが起き、その後、熱がやや下がるが、紅斑や水疱、膿疱などの発疹が起きると再び高熱を発し、疼痛や灼熱感に襲われる。その後、2週間から3週間で症状が収まるが、発症中に死亡したり失明することもあり、発疹の跡に色素沈着やいわゆる痘痕が残ることも多い。

 実朝は、天然痘で顔に痘痕が残り、そのため引きこもりがちになって将軍としての政務がほとんどできなかったとされているが、小説『右大臣実朝』で太宰治は天然痘が理由ではないとも書いている。このように天然痘にかかると、いわゆる「あばた」である痘痕が顔面、手足に残り、一生消えることはない。また、失明や難聴などの後遺症もあり、独眼竜といわれた伊達政宗も天然痘により右の目を失っている。

 根絶前、日本人の天然痘による人口ごとの死亡率は、5歳までの乳幼児が約66%、10歳までの小児が約24%とされ、最も天然痘死亡者が多かった1804(文化元)年の場合、全体で約3.4%だったと考えられ、やはり子どもの死亡率が高い。また、天然痘にかかった患者の死亡数である致命率は全体も高く、明治期で約28%から約38.5%だった(※1)。

 ところで、日本各地に「いもあらい」という地名がある。東京・六本木の交差点から麻布十番のほうへ降りていく坂も「芋洗坂」だし、千代田区の新見附橋から大妻女子大のほうへ上がっていく坂も「一口(いもあらい)坂」と言う。古来、天然痘に苦しんだ人々が天然痘にかからないよう、神格化して疱瘡神とし、イモ、つまり天然痘を治す(あらう)ために疱瘡神を祀り、地名にしたようだ。

天然痘はどのように根絶されたのか

 このように天然痘は、日本のみならず世界中で感染拡大が起き、人類を長く苦しめてきた。もちろん、エドワード・ジェンナーによる種痘など、予防的な措置や治療に尽力した多くの人々の存在は無視できないが、この記事では特に天然痘の最後にフォーカスを当てる。

 天然痘の根絶がWHOから確認されたのは1979年10月26日のことだ。ソマリアで発見された自然発生の天然痘患者が最後とされ、それから2年経っても感染者が出なかったことによる。そして1980年5月8日、WHOは正式に天然痘の根絶を宣言した。

 では、天然痘はどのようにして世界からなくなったのだろう。根絶が可能とされる感染症は、衛生的な環境が大前提だが、病原体の自然宿主がヒトに限られ、症状など可視的に明確な診断ができ、感染の観察が容易で、効果的な単回投与ワクチンがあるものとされている(※2)。ヒト・ヒト感染の天然痘は、、媒介生物がなく、感染者の症状による診断が容易でワクチンもあった。

 つまり、感染者を検査して隔離し、同時にワクチン接種によって予防を続けていけば天然痘ウイルスを根絶できる。WHO(世界保健機関)が天然痘の根絶に本格的に乗り出したのは1958年だった。

 ただ、全人口へのワクチン接種は体質や既往症、基礎疾患、妊娠などによって限界がある。さらに、ワクチンを運べない地域もあるし、ワクチンを忌避する人も少なくない。

 WHOは1966年、天然痘根絶の仕切り直しをし、このプロジェクト・リーダーには日本人研究者(医師の蟻田功)がになうようになる。そして天然痘の感染の特徴である濃厚接触に着目し、ワクチン接種のみの徹底から感染者の探索と隔離治療の徹底とワクチン接種へ戦術を転換した(※3)。

 では、どうやって感染者を見つけ、隔離治療するのだろうか。プロジェクト・チームは、天然痘の症状が現れた患者を発見した人に報奨金を支払うことにした。最初は1米ドルから始め、10米ドル、100米ドル、最終的には1000米ドルになった。

 感染は南米やアフリカなどの貧困地で多く、住民はこぞって感染者を発見し、報告するようになった。感染者が発見された地域で重点的にワクチン接種を行い、それを繰り返ていった。その結果、1977年10月26日にアフリカで最後の天然痘患者が報告され、2年後の1979年10月26日にWHOは天然痘の根絶を発表する。

天然痘の症例報告に対して1000米ドルの報奨金を支払い、世界で最後の症例から39週間が経過したという報告書。Via:F. Fenner, et al.,
天然痘の症例報告に対して1000米ドルの報奨金を支払い、世界で最後の症例から39週間が経過したという報告書。Via:F. Fenner, et al., "Smallpox and its Eradication" WHO, 1988

 だが、天然痘根絶確認の前年、1978年に英国のバーミンガム大学で不幸な事故が起きる。医学研究室で天然痘ウイルスの研究を継続していたところ、換気口からウイルスが漏れ出て、それに空気感染した女性技師が死亡したのだ。

 WHOはこの事故を受け、日本人担当者の蟻田功が中心となり、天然痘ウイルスの研究所を漸減させていき、最終的に世界の2ヶ所に集約し、バイオセーフティ・レベル4で管理し、いずれウイルスを破棄する計画を立てた。2ヶ所とは、米国ジョージア州アトランタにあるCDC(疾病対策予防センター)とロシア連邦のシベリアのノヴォシビルスクにあるロシア国立ウイルス学・生物工学研究センターだ。ただ、両機関は天然痘ウイルスを依然として廃棄していない。

WHOによる天然痘根絶ポスター。Via:F. Fenner, et al.,
WHOによる天然痘根絶ポスター。Via:F. Fenner, et al., "Smallpox and its Eradication" WHO, 1988

※1:川村純一、「病いの克服─日本痘瘡史」、思文閣出版、1999

※2:Clark Donald Russell, "Eradicating infectious disease: can we and should we?" Frontiers in Immunology, doi.org/10.3389/fimmu.2011.00053, 10, October, 2011

※3:F. Fenner, et al., "Smallpox and its Eradication" WHO, 1988

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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