きょう11月5日は津波防災の日、連続地震だった安政南海地震の教訓を活かす
多くの犠牲者を出す津波
2万2千人もの犠牲者を出した2011年東日本大震災での津波は誰もが忘れません。過去から、海で大きな地震が起きると、津波が海岸を襲い多くの人たちが犠牲になってきました。明治以降だけでも、1896年明治三陸地震、1933年昭和三陸地震、1944年東南海地震、1946年南海地震など死者1000人を越える犠牲者を出した地震は5つもあります。戦後も、1960年チリ地震、1983年日本海中部地震、1993年北海道南西沖地震などで死者100人を越える犠牲者を出しています。火災や家屋倒壊の犠牲者が多かった1923年関東大震災や1995年阪神・淡路大震災を除くと、多くの犠牲者を出す地震は津波を伴います。津波防災の大切さが分かります。
津波防災の日
今日11月5日は、津波防災の日です。東日本大震災で甚大な津波被害を出したことから、同年6月、津波被害から国民の生命、身体・財産を保護することを目的に「津波対策の推進に関する法律」が制定されました。そして、津波の教訓を伝え津波対策を総合的かつ効果的に推進するため、11月5日を「津波防災の日」と定めました。津波防災の日には、津波対策について国民の理解と関心を高めるため、全国各地で防災訓練の実施やシンポジウム等を開催します。本日も、「津波防災スペシャルゼミin本郷」をはじめ、各地で色々なイベントが催されています。
2015年には、第70回国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議が採択され、11月5日は「世界津波の日」にもなりました。
安政南海地震にちなむ「稲むらの火」が伝える津波防災
津波防災の日の11月5日は、嘉永7年11月5日夕刻(1854年12月24日16時半頃)に発生した安政南海地震の旧暦の日に相当します。この地震で多くの命を津波から救った逸話「稲むらの火」が、津波防災の良い教訓になることからこの日が指定されました。
稲むらの火は、大津波が和歌山県広村に押し寄せたとき、庄屋の浜口梧陵が自らの収穫した稲むらに火をつけることで早期に警報を発し、暗闇の中で逃げ遅れていた人たちを高台に避難させて命を救い、さらに、地震後は被災地のより良い復興に尽力したという物語です。
この物語は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が1896年明治三陸地震の後に記した「A Living God」が元になっています。明治三陸地震では、津波が広く東北地方太平洋岸を襲い、2万2千人もの津波犠牲者を出しました。そのこともあって、物語の中での地震の様子は安政南海地震と明治三陸地震が入り混じったものになっています。その後、昭和になって、広村に隣接する湯浅町出身の小学校教員、中井常蔵が「A Living God」を児童向けに翻訳、再構成し、国語教科書の教材公募で採択されました。稲むらの火は、尋常小学校5年生の国語の教科書に1937年から掲載され、戦後の1947年まで使われ、津波防災教育に大きな役割を果たしました。ちなみに、2011年から、小学校5年生の教科書の一つに、濱口梧陵の伝記「百年後のふるさとを守る」として再掲されています。
稲むらの火が着目されたのは、津波による大きな被害が発生した2004年スマトラ島沖地震の直後に神戸市で開催された2005年世界防災会議です。この会議で、「稲むらの火」が紹介されて各国の防災担当者から注目されました。その後、アジア防災センターが、「アジア地域における「稲むらの火」普及プロジェクト」として、7か国語に翻訳したテキストを配布し、各国で普及に努めました。これが世界津波防災の日につながりました。
安政南海地震
安政南海地震は、1854年12月24日午後4時半すぎに、紀伊水道から四国沖にかけての南海トラフの西半分を震源域として発生したマグニチュード(M)8.4程度の地震で、死者は数千人と推定されています。この地震の前日12月23日午前9時頃には、駿河湾内から遠州灘、熊野灘にかけての駿河トラフ~南海トラフ東半分で安政東海地震が発生しています。この地震規模(M)も8.4程度で、死者は2000~3000人程度と推定されています。何れも典型的な南海トラフ地震で32時間の時間差で、東西に分かれて発生しました。南海地震の2日後の12月26日には、四国と九州の間の豊予海峡でM7.3~7.5の豊予海峡地震が発生しています。
これらの地震では、津波や強い揺れに加え、地盤の隆起・沈降もあり、御前崎・潮岬・足摺岬などで隆起し、一方で、浜名湖周辺、濃尾平野、高知などは沈降し、海に没したところも多くありました。また、各地で液状化により泥水が噴出しました。ちなみに、地震が発生した日の元号は嘉永でしたが、度重なる天災や黒船来航などを嫌って安政に改元したため、現在は、安政地震と呼称されています。
大阪での津波被害
南海地震では、高知や和歌山などで強い揺れと津波に見舞われましたが、天下の台所・大坂でも大きな津波被害が生じました。大阪は、外洋には面していませんが、紀伊水道の形が津波を受け止めやすい形をしており、紀淡海峡から漏斗のように津波が吸い込まれます。このため、1707年宝永地震でも、津波で1万6千人も溺死したと言われています。
その場所に、再び、津波が来襲しました。津波高さは、天保山で1.6~1.9mと言われています。樽廻船、菱垣廻船、北前船など数百艘の大型船が川を遡上し、住民が避難していた川船に衝突したり、橋を損壊させました。この地震の半年前に発生した伊賀上野地震の時に、川船で難を逃れた体験が災いしたようです。宝永地震の教訓が生かされなかったことを反省し、木津川の大正橋東詰に大地震両川口津波記石碑が建立されました。石碑は、次に津波が来ても「決して船で逃げようと思うな」と警告し、「この石碑の文字がいつも読めるように、毎年この石碑の文字に墨を入れるように」と戒めています。今でも毎年、墨が入れられています。
1946年昭和南海地震は、幸い、地震が小さめだったこともあり、大阪での津波被害は殆どありませんでした。このことが、津波防災意識を低下させていないか、少し心配です。
次の南海トラフ地震を前にして
次の南海トラフ地震は、今後30年間で70%程度の確率で発生すると言われています。最悪の場合、死者数は32万3千人、そのうち津波犠牲者は23万人とされ、死因の7割を越えています。人命を守るには、津波を防御する防波堤や土地の嵩上げ、津波避難施設などのハード対策に加え、津波を避けた土地利用や避難などのソフト対策が鍵を握ります。
東日本大震災を受けて2011年に制定された「津波防災地域づくりに関する法律」では、津波浸水想定の公表や津波防災地域づくりの推進計画を策定すると共に、津波の危険度の高い地域を津波災害警戒区域や津波災害特別警戒区域に指定することを定めました。これによって、震災後、各地でハード・ソフト対策が進みつつあります。また、釜石市では、日頃の津波防災教育によって、全小中学校の生徒が適切に津波避難をしたことから、津波防災教育の大切さが再認識されました。
南海トラフ地震について、確度の高い地震予知が困難だとされる中、32時間の時間差で発生した安政南海地震の教訓は多々あります。昭和の地震でも東南海地震の2年後に南海地震が発生しました。万が一、南海トラフ地震の震源域の半分で地震が起きたとき、その後の犠牲者を少しでも減らすため、整備された観測態勢を活かしつつ、どんなことができるか予め考えておくことが大切です。それにも増して大切なのは、事前の対策です。危険の回避と早期避難を心がけたいと思います。