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国立天文台、三鷹市への移転100周年を迎える

縣秀彦自然科学研究機構 国立天文台 准教授
三鷹時代初期の国立天文台(三鷹市大沢)のようす(北からのながめ) 提供:NAOJ

現在の国立天文台は1988年(昭和63年)に発足しましたが、その前身となるのが東京天文台です。東京天文台は1888年(明治21年)に創設されました。そして今から100年前の1924年9月1日、東京天文台は麻布飯倉から三鷹市(当時の北多摩郡三鷹村)に移転しました。三鷹移転100周年にあたり、国立天文台の歴史を振り返ってみましょう。

麻布飯倉に設置された初代の東京天文台

東京天文台の前身は1684年(貞享元年)に江戸幕府が設置した「天文方」です。明治維新後の途中紆余曲折があるものの、国立天文台はその前身をたどると340年もの歴史があります。

明治維新後、1877年(明治10年)に東京大学が創設されました。その後、1886年(明治19年)に東京大学は帝国大学と改称改組されて、5つの分科大学が設けられます。その1つである理科大学の中の7学科の1つが星学科でした。当時、星学科教授は寺尾寿で、天象台は理科大学天象台と呼ばれるようになりました。この頃、天象観測と編暦には文部省の他、海軍省、内務省が当たっていたため、それぞれが独自の天文台建設計画を持って競合していました。しかし、最終的には文部省の提案で、内務・海軍両省で行ってきた天象観測と内務省の編暦事業を文部大臣に所管させることになりました。それを実現するために1888年(明治21年)に、海軍観象台のあった東京府麻布区飯倉町狸穴に東京天文台が設置され、寺尾寿が初代台長となりました。この時、東京天文台職員は台長を含め6名からのスタートでした。

麻布時代の東京天文台(麻布飯倉)提供:国立天文台(NAOJ)
麻布時代の東京天文台(麻布飯倉)提供:国立天文台(NAOJ)

三鷹村大澤への移転

しかし、次第に麻布飯倉周辺の市街化で観測条件が悪化し、用地も手狭になったため、東京天文台は東京府北多摩郡三鷹村に移転することが決まりました。1909年(明治42年)には、北多摩郡三鷹村大澤(現在の三鷹本部キャンパス)に土地を購入し、1914年(大正3年)から新しい天文台の建設工事がはじまりました。

第一赤道儀室(1921年竣工;登録有形文化財)の現在のようす(一般公開されている) 提供:NAOJ
第一赤道儀室(1921年竣工;登録有形文化財)の現在のようす(一般公開されている) 提供:NAOJ

現在の国立天文台三鷹本部キャンパスに残るもっとも古い観測ドームは「第一赤道儀室」です。第一赤道儀室は、東京帝国大学営繕課が設計し、1921年(大正10年)に完成しました。構造は鉄筋コンクリート造りの2階建てです。ドーム内にある口径20センチメートルの屈折望遠鏡はドイツのツァイス製で、望遠鏡の架台は重錘時計駆動赤道儀方式(ガバナー式)です。この望遠鏡は1938年(昭和13年)から61年間、太陽黒点のスケッチ観測に活躍しました。第一赤道儀室は、現在は一般公開されており、2002年(平成14年)2月に国の登録有形文化財となりました。また、1916年(大正5年)には、三鷹(旧)本館が起工、そして1921年(大正10年)に竣工しています。ただし、旧本館は1945年に火災で焼失しています。

三鷹の旧本館(1921年竣工)玄関 戦時中の1945年2月8日早暁に焼失  提供:NAOJ 
三鷹の旧本館(1921年竣工)玄関 戦時中の1945年2月8日早暁に焼失  提供:NAOJ 

今でいう都心の便利な生活から三鷹村に引っ越すのには当時の職員等の反発も大きく、なかなか移転が思うように進まなかったとも伝え聞きます。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で、麻布の施設や器械が大きく損傷したこともあり、三鷹移転の機運は急速に高まり、1924年(大正13年)9月に主要部分が北多磨郡三鷹村大澤(現在の三鷹市大沢)へ移転しました。また、当時、三鷹村と地域の人たちが熱心に誘致や寄付をして下さったとのことです。それが今の三鷹市と国立天文台の強い絆(協力関係)につながっているのかもしれません。

三鷹移転の頃の東京天文台

初期の東京天文台の主な仕事は、星の観測による経緯度の決定、暦の計算、時刻の決定を行うことでした。これは明治時代の国策としてはじまりましたが、現在もその一部は国立天文台の業務として続けられています。特に暦計算と暦発行は今でも重要な業務となっています。

三鷹移転の翌年、1925年(大正14年)には『理科年表』の刊行が始まり、今に続いています。また、翌々年の1926年(大正15年)には大赤道儀室が完成。1929年(昭和4年)11月には、三鷹本部のメイン観測機器として長年活躍した65センチメートル赤道儀が大赤道儀室に設置されました。大赤道儀室も2002年(平成14年)2月に国の登録有形文化財となり、いまでは「天文台歴史館」とも呼ばれる台内の見学コースのメインの見学場所となっています。(国立天文台三鷹本部キャンパスは2000年(平成12年)7月20日より常時一般公開されています。)

大赤道儀室(1926年竣工;登録有形文化財) 戦時中の迷彩を留めている戦後間もない頃のすがた 提供:NAOJ
大赤道儀室(1926年竣工;登録有形文化財) 戦時中の迷彩を留めている戦後間もない頃のすがた 提供:NAOJ

大赤道儀室内の65センチメートル屈折望遠鏡(現在) 1929年(昭和4年)11月に設置され、1998年頃まで研究利用されてきた。現在は静態保存中。国内でもっとも口径の大きな屈折望遠鏡の一つ。
大赤道儀室内の65センチメートル屈折望遠鏡(現在) 1929年(昭和4年)11月に設置され、1998年頃まで研究利用されてきた。現在は静態保存中。国内でもっとも口径の大きな屈折望遠鏡の一つ。

東京天文台から国立天文台へ

東京天文台はその後、国内にさまざまな観測施設を建設してきましたが、1980年代に観測条件の良い外国に大型の可視光赤外線望遠鏡を建設する計画(すばる望遠鏡建設計画)が策定されました。このような大規模な計画を進めるには東京大学の附置研究所では難しく、文部省(当時)の直轄研究所に改組することになりました。こうして、1988年(昭和63 年)、東京天文台は岩手県奥州市にあった緯度観測所、および愛知県豊川市にあった名古屋大学空電研究所の一部と一緒になり、文部省(2001年以降は文部科学省)が所管し、全国の大学の共同利用に供する設備を運用する大学共同利用機関として国立天文台となりました。さらに国立天文台は2004 年(平成16 年)4月1日より法人化し、文部科学省のもとにある4つの大学共同利用機関法人のなかの1つ、自然科学研究機構に所属する国立天文台となり現在にいたります。国立天文台の現在の職員数は526名(2024年4月1日現在)。国立天文台三鷹本部キャンパスは、年末年始を除き常時一般公開されています。気軽にお立ち寄りください。構内には三鷹市が運営する「三鷹市星と森と絵本の家」も併設されています。

現在の国立天文台三鷹本部キャンパス 2019年3月撮影  提供:国立天文台(NAOJ) 
現在の国立天文台三鷹本部キャンパス 2019年3月撮影  提供:国立天文台(NAOJ) 

三鷹市星と森と絵本の家(2009-)は、国立天文台の協力のもとに三鷹市が設置・運営する施設。1915年(大正4年)に高等官官舎として建設された建物を再利用。 提供:三鷹市星と森と絵本の家
三鷹市星と森と絵本の家(2009-)は、国立天文台の協力のもとに三鷹市が設置・運営する施設。1915年(大正4年)に高等官官舎として建設された建物を再利用。 提供:三鷹市星と森と絵本の家

自然科学研究機構 国立天文台 准教授

1961年長野県大町市八坂生まれ(現在、信濃大町観光大使)。NHK高校講座、ラジオ深夜便にレギュラー出演中。国際天文学連合(IAU)国際普及室所属。国立天文台で天文教育と天文学の普及活動を担当。専門は天文教育(教育学博士)。「科学を文化に」、「世界を元気に」を合言葉に世界中を飛び回っている。

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