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日米航空路のために68年前に「凌風丸」が北方定点に出港

饒村曜気象予報士
昭和22年10月の高層気象観測が掲載されている高層観測の報告書

今から68年前の昭和22年10月16日、北方定点観測の第1船として中央気象台(現在の気象庁)の「凌風丸」が東京港を出港しています。

海上を航行する船舶からの気象状況の報告は、暴風警報や天気予報は精度が良くなってきましたが、船舶の航路はだいたい決まっているため、観測の必要な海域でのデータが得られないことがあります。

このために考えられたのが、専門の観測船を、海上のある定まった位置に配置することでした。これが、定点観測船による定点観測です。

敗戦国日本の生きる道は海の活用

第二次世界大戦中、アメリカは太平洋と大西洋にそれぞれ20隻以上の定点観測船を置き、暴風による兵力の損失を防ぎ、一方では気象を利用した作戦を行っていました。経費を無視しておこなた定点観測ですが、場所によっては、かなりの経費をかけても、かけた以上の効果があることがわかってきました。

終戦とともに、にわかに狭い国内で生存せざるをえなくなった日本としては、どうしても広い海洋に資源を求めることが必要だったのです。

このため、中央気象台は、昭和22年1月10日にアメリカ空軍在日気象隊に対して、日本近海4箇所の定点観測等の案を提出し、1月19日に連合軍総司令部(GHQ)に、当時アメリカ海軍に押収されていた海軍艦艇の借用を申請しています。

日本の気象業務を強化するとともに、海洋資源の調査によって漁業の発展とあらゆる種類の自然開発への寄与を考えていたのです。

図1 予定されていた4つの定点観測位置と最初の北方定点観測に向かう「凌風丸」の航路
図1 予定されていた4つの定点観測位置と最初の北方定点観測に向かう「凌風丸」の航路

戦後の急激なインフレで定点観測をあきらめたが…

日本近海の定点観測の計画案を提出した中央気象台ですが、戦後の急激なインフレが進んだことなどから、その計画をあきらめましたが、計画提出から半年後の7月18日、連合軍総司令部から、

「中央気象台が希望する北方定点(北緯39度、東経153度)については、即時実施せよ。近い将来、可能となったら日本海定点、東シナ海定点、南方定点(北緯29度、東経135度)をも実施せよ」

という覚え書きを受け取っています。

アメリカ軍は自国の航空路保安上から北方定点の観測を要請し、これと引き替えに日本近海の海洋観測も許可するという形がとられたのです。

中央気象台は、申請は出したものの、観測船を動かす経費の支出は困難として申請を取り下げたいと申し入れましたが、経済科学局、大蔵省及び中央気象台の三者会談において予備金の支出が決まり、9月22日には再び連合軍総司令部から「定点観測を行うための処置を昭和22年10月20日までに完了することを命ずる」という覚え書きを受け取り、何が何でもやらざるを得なくなっています。

このため、昭和22年10月16日、中央気象台の「凌風丸」が北方定点観測の第1船として東京港を出港し、ゆっくり東へ向かって10月22日から北方定点において観測を開始しています。

ゆっくり向かった理由は、機器の調整等をしながらからではないかと推測していますが、定かではありません。

また、11月1日には旧海防艦の「新南丸」が北方定点第2船として横須賀の長浦港を出港しています。

北方定点観測に使われた海軍艦艇は、旧海防艦の「竹生丸」「鵜来丸」「生名丸」「新南丸」「志賀丸」の5隻です。

アメリカが強く北方定点観測を要請した理由

北方定点の場所は、アメリカと日本を結ぶ航空路の真下にあたります。

当時の飛行機は、ラジオビーコンという電波の助けをかりて飛行していました。定点観測船からラジオビーコンを定時に発射させようという意図があったので、北方定点観測が強く要請したのです。

後に進駐軍某将校の言ったところによると「定点における気象観測だけを考えると、その利益は五分五分であるが、定点観測船でラジオビーコンをやれば、連合軍の利益80%、日本の利益が20%である」。

出典:気象百年史(1975、気象庁編集)

図2 定点海上気象観測日表(昭和22年10月16日)
図2 定点海上気象観測日表(昭和22年10月16日)

昭和23年9月20日からは南方定点観測も開始

北方定点の開始時点で間に合わなかったラジオビーコンですが、翌23年8月6日から発射となっています。

また、同年9月20日からは台風期間だけの南方定点での観測が始まっています。しかし、南方定点でのラジオビーコンの発射は行われず、日本海定点と東シナ海定点は実現しませんでした。

講和条約により定点観測は日本政府によって運営に

昭和27年4月28日に講和条約が締結され、日米安全保障条約第3条による日米行政協定第8条に従って、定点観測は日本政府によって運営されることになります。

定点観測を行っていた観測船は、年とともに損傷が進んで、全経費の3分の1が船体修理に使われるようになってきました。

加えて経費の75%を援助していたアメリカが、昭和28年12月1日以降の援助を打ちきったため、北方定点は廃止となっています。

国民の間には知られていない北方定点での観測

アメリカの定点観測への援助打ち切りの背景には、飛行機の急速な発展に伴い、ラジオビーコンが不要になったことがあげられています。

こうして、進駐軍命令による4年6ヶ月、行政協定による1年7ヶ月、通算7年間の140航海(1航海は15~20日)という北方定点観測が終わっています。

しかも、進駐軍命令による4年6ヶ月は、定点観測業務は、新聞やラジオでの発表が禁止されていたこともあり、国民の間には知られていない業務でした。行政協定期間中も積極的な発表はありませんでした。

南方定点業務の再開

定点観測のうち、南方定点観測は、梅雨前線や東海から関東地方を襲う台風による災害を防ぐために重要ということがわかってきたため、昭和29年から昭和56年まで、5~11月の暖候期に限って再開となっています。

このため、南方定点については、ときおりニュース等で取り上げられ、国民の間に知られるようになりましたが、北方定点については、ほとんど知られていません。

北の海での奮闘

北方定点観測で使われた旧海防艦は、外板が7ミリの薄い鉄板であるなど船の材質に良い物が使われていません。航海が終わると湾曲や歪みが目立ち、船を船台に載せると船底から水が滝のように噴出したとの話もあります。つまり、船底に穴のあいた状態で航海を続けていたのです。加えて、海防艦は、武器弾薬や戦闘員を沢山積むことを想定しての設計ですので、定点観測の使い方では喫水が浅くなって横揺れが大きく、しかも、暖房設備がありませんでした。

中央気象台の「凌風丸」は日本初の本格的な気象観測船ですが、昭和12年の建造であり、物資輸送などで酷使され続けた小型船で老朽化が目立っていました。

このような悪条件の中、戦後の日本を立て直すため、北の海で奮闘していた人たちがいたのです。

図の出典:饒村曜(2002)、台風と闘った観測船、成山堂書店。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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