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明治150年・あの時代から続く「通俗道徳の罠」を考える~『生きづらい明治社会』を読んで

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
第1回帝国議会の様子。第1号法案として貧困対策の法案が提出されたが……

 150年前の今日、元号が「慶応」から「明治」に改められた。

 ということで、政府が明治維新150年を祝う式典を開いた。その趣旨は「明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」(菅官房長官)というもので、与野党の国会議員や各界の代表者ら約350人が出席。

 式辞で安倍首相は「新しい国づくりに際しては、それまでの身分、武士・農民・町民の別に関わりなく、若者や女性を含め、志を持った人々が、全国各地で躍動しました」と述べ、「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けたことに思いをはせながら、私たちは、この難局に真正面から立ち向かい、乗り越えていかなければならない」と強調した。そのうえで「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。

 国の形を整え、「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」をスローガンに欧米に追いつこうと努力をし、急速に社会を近代化させていった「明治」は、日本がまさに「坂の上の雲」を見上げながら駆け上がった時代だった。

明治維新が人々の考え方をどう変えたか

 ただ、そういう「明」の側面だけではない。安倍首相も「光と影」と述べたように、「光」が強ければ、「影」の闇も濃い。そして、「光」の恩恵が今の私たちにも及んでいるように、「影」についても現代にまで長く、私たちの中に留まっているようである。

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 岩波ジュニア新書『生きづらい明治社会・不安と競争の時代』(松沢裕作著)を読んで、そんなことを考えさせられた。明治時代を研究してきた歴史学者の松沢氏は同書で、この激動の時代を生きた市井の人々にまなざしを向けて様々な出来事を紹介しつつ、今とのつながりを考察している。ご本人が「私は歴史学者なので、現在おきていることを厳密に分析する専門的な知識をもっていない」と述べているように、現代の政治に関する評価には必ずしも疑問なしとしないが、人々の価値観や社会のありようについての分析は実に興味深く読んだ。

 明治時代は、「現在の政治、経済、社会の土台が築かれ」た(安倍首相の式辞より)だけでなく、それにともなって人々の価値観、道徳観も大きく変容した。松沢氏は、明治維新と人々のものの考え方について、こう総括している。

〈明治維新という大きな変革は、江戸時代の社会の仕組みを壊しました。江戸時代の村請制*による連帯責任のように、相互に助け合うことを強いられていた人びとの結びつきはなくなります。できたばかりの小さくて弱い政府は頼りになりません。頼りになるのは自分の努力だけです。こうした状況のもとでは、ともかくも人はがんばってみるしかありません。がんばって成功した人は、自分の成功は自分のがんばりのおかげだと主張します。成功しなかった人は、ああがんばりが足りなかったのだなあと思い込むようになります〉

がんばって働き、倹約して貯蓄すれば、かならず経済的に成功をおさめることができる。貧困におちいるのは、がんばっていないからだ。これが明治時代のメインストリームの価値観、「通俗道徳」でした〉

「立身出世」の夢と「都市下層民」の現実

 明治社会では、どの家に生まれるかによって人生がほぼ決まっていた江戸時代とは異なり、すべての子供が義務教育を受けることになり、たとえ貧しい家の出身でも、優秀であれば高等教育を受け、役人や軍人などとして出世することも不可能ではなかった。多くの若者が「立身出世」を夢見てがんばった時代。

 しかし、がんばっても、誰もが成功するとは限らない。運が悪く、あるいは置かれた環境が劣悪で、いくらがんばっても、貧困から抜け出せない人たちもいる。

 「都市下層民」たちには、住居を持てない者も少なくなかった。布団を買うだけのまとまった金もなく、貯金をするゆとりもない。そんな彼ら向けの布団のレンタル業もあった。

 この時代、貧困に苦しむ人たちには、どういう支援があったのか。これについての、本書の記述が、当時の人びとの価値観を表していて興味深い。

明治時代の貧困対策

 貧困層の対策として、政府は1874(明治7)年12月8日に「恤救(じゅっきゅう)規則」という法令を制定する。未だ大日本帝国憲法が発布する前だ。現在の生活保護の源流だが、その性格はまったく異なる。

 そこでは、貧困対策は「人民相互の情誼(じょうぎ=情愛)によるべし」として、民衆が相互の助け合いで行うべきだという基本的な考え方が示されていた。そのうえで、(1)障害者、(2)70歳以上の高齢者、(3)病人、(4)13歳以下の児童であって、かつ(a)働くことができず、(b)極めて貧しく、(c)独り身である場合には、一定の食費を支給することとした。

 つまり、働くことができないほど弱り、頼る相手が誰もいない孤独な人だけが、支援の対象となった。

第1回帝国議会で出された「窮民救助法案」は

大日本帝国憲法発布の図
大日本帝国憲法発布の図

 その後、1889(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が制定され、法律を制定するためには、帝国議会の賛成が必要になった。

 1890(明治23)年11月、第1回帝国議会に、政府は恤救規則に代わるものとして「窮民救助法案」を提出した。救済の条件として(c)独り身であることが除かれ、戸籍上の家族がいても、実際に飢餓に瀕している者は救済することになっていた。市町村に、救助の義務を負わせたのも新しい点だった。最初の国会に、政府提出の第1号法案として出しているところを見れば、時の政府も貧困対策は大事だと考えていたのだろう。

 ところが、である。

 選挙で選ばれた国民の代表である衆議院は、この法案を否決してしまう。議員が反対した理由を、同書では次のようにまとめている。

〈第1の理由は、自治体に困窮者を救う「義務」があるならば、困窮者には「権利」があることになってしまう、という議論です。…議員たちは、そうした権利をみとめることは理にかなっていないと考えました。なぜなら、困窮に陥ったのは、その当人が、働き、貯蓄をするという努力をおこたった結果だと考えたからです。当人が怠けた結果である貧困を、税金として集めたみんなのお金をつかって解決するのはおかしい。貧困は自己責任であって、社会の責任ではない。むしろ、こうした法律をつくってしまえば、人びとは万一に備えて貯蓄することをしなくなり、怠け者が増えてしまう。議員たちはこのように主張しました〉

 第2の理由は、恤救規則で充分であって、新しい法案は必要ない、というもの。第3の理由は、日本人はみな貧しく、生活にはそれほど余裕がないのだから、困窮者対策の負担を負わせるのは適切でない、というものだった。

 政府は貧困対策を(少しは)前進させようとしたのに、国民の代表たる議会が、貧困は自己責任だ、助ければ怠け者になる、という発想で反対したのだ。

 法案が否決されたため、恤救規則は生き続ける。1929(昭和4)年になって、ようやく「救護法」が制定されたが、財政不足を理由にすぐに施行されなかった。同法が実際に施行されたのは3年後の1932(昭和7)年になってからだった。

東京府議会では……

 帝国議会での「窮民救助法案」を巡る議論より9年前、東京府議会でも、貧困層の医療費を巡る論争があった。

 当時は、現在のような健康保険制度はなく、医療機関にかかれば全額負担で、貧困者は医療を受けることが難しかった。そのため、貧困者が病気にかかった時は、申請によって医療クーポン「施療券」が交付され、これによって無料で治療が受けられる仕組みだった。

 ある府議会議員は「施療券をもらって入院をもとめる貧困な患者をみると、自己管理ができていなくて、体を大切にしなかった結果のようなものもいる」として、この制度を批判した。

 これに反論する者もいて、ジャーナリストが新聞で「貧困者を救済するのは社会の義務」という論陣を張った。

 しかし、結局1881年の東京府会で、貧困対策の費用は削減され、施療券も廃止されてしまった。病気も含めて「自己責任」の主張が勝ったのだ。

 松沢氏は、「弱者に冷たい明治社会」が出来上がったのは、憲法が今のように生存権を保証していなかったことだけでなく、多くの人びとが「成功したのはがんばったから。貧困に陥ったのはがんばりがたりなかった」という「通俗道徳のわな」にはまっていったことが原因だと指摘している。

生存権を認めた日本国憲法の下で

 明治維新から150年。今、この国には日本国憲法があり、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、国民の生存権を保証している。生活保護をはじめ、様々な制度もある。かつてと比べて、私たちの社会は大きく進化した。

 その一方で、明治の頃、「光」と共に人びとの心の中の差し始めた「影」が、今を生きる人たちの心にも残ってはいないだろうか。かつての帝国議会や東京府会での議論と似たような物言いを、最近も耳にしたような気がする。明治の人たちが陥った「通俗道徳のわな」から、私たちもまた、解放されていないのではないか。

 若い世代に限らず、そんなことも含めて、明治の「光と影、様々な側面」を考えるきっかけに、この「明治維新150年」がなればいいと思う。

*「村請制」……領主に支払う年貢を、村単位の連帯責任で負担する制度。1人の農家が困窮し年貢が払えなくなったり、借金で土地を失って村から出て行ったりしても、村は同じ額を負担しなければならない。そのため、困窮した農民を助けたり、土地を失わないように配慮したりすることが、村全体の利益でもあった。

 明治維新後、「地租改正」により、土地をもっている一人ひとりの家の戸主が税金を納めることになった。税金が払えない人がいても、その人の財産が差し押さえられるだけで、他の村人の納税にはまったく影響しない。

 

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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