『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』の現代における批評性
先日、下記のエントリで簡潔に紹介したように、1948年から1953年に実際に使用された『民主主義』というテキストを、抄録かつ読みやすいように手を加えて復刊した。
「民主主義の共通感覚」と『民主主義』--かつての中学、高校教科書『民主主義』復刊に寄せて(西田亮介)- Y!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryosukenishida/20160204-00054116/
上記では、簡潔に、復刊に取り組んだ現代的文脈を書いた。詳しくは先のエントリを読んでほしいが、問題意識として、日本社会における「民主主義の共通感覚」の不在(と、同時に、具体的に参照できる対象の不在)、2015年の公選法改正による18歳への投票年齢の引き下げ、今夏の参院選以後に現実味を帯びる憲法改正発議の可能性とその投票運動などを背景に、『民主主義』が「日本人がもっとも真剣に民主主義に向き合った/向き合わざるをえなかった時期」に、むろんGHQ/CIEの一定の影響下のもとにありながら(日本教育の再興に多面的に関わったことで知られる、CIEのハワード・ベル博士が重要な役割を果たしたようだ)、しかし一定の独立を担保されながら記された稀有なテキストであることなどを紹介した。
もうひとつ、現代日本の政治的社会的状況で、このテキストを復刊させることには少なからず批評性があると考えている。このエントリでは、その点を紹介したい。「民主主義」というと、最近では、ともすれば思想的に左翼的な思想を主張しているように思われるのではないか。だが、『民主主義』を執筆するのみならず、最終的に取りまとめる役割を果たした著名な法哲学者尾高朝雄は、ケルゼンを翻訳し、シュッツらからも学んだようである。現代的な意味での「サヨク」とは趣きが異なった学術的な背景を有している。むろん、いわゆるマルクス主義的な意味でも、尾高は左翼的な思想の持ち主とはいえまい。
事実、このテキストは、刊行されたのち、多くの批判を受けている。「官製民主主義」の押し付けであるという批判もあれば、当時の左翼陣営もまたこのテキストを批判した。尾高自身が「『民主主義』について」という1949年に「教育現実」という雑誌に記した短い論文で用いた言葉を借りれば、「日本共産党の外郭団体」によって「職権濫用罪」で告発されたそうである(検察当局は不受理としたようだ)。当時の文脈では、『民主主義』は左派が擁護するテキストとは見なされなかったのである。敗戦後、戦時中抑圧されていた労働運動や共産主義が花開いたこともあり、彼らの観点からすれば、このテキストは保守的に過ぎたということになるのであろう。
このように捉えると、ここではあくまで簡潔に述べるに留めるが、このテキストを素朴な左派的な理解で受容しても、やはり素朴な右派的な理解のもとで冷笑してみたとしても、図らずもいずれもこのテキストが本来有する文脈とは異なった「ねじれ」が生じさせることになる。だが、この「ねじれ」こそが現代的な意味での批評性といえるのではないか。というのも、時代文脈や執筆の歴史的経緯、その社会的受容を総合しながら読み解く過程に(個々人がそこから導き出す「結論」ではなく)、本書を再読する価値があるように思われるからである。
むろん、本書はかつての教科書でありながら、尾高という研究者としても、教育者としても優れた著者が全体を監修し、当時保守的な意味でも、革新的な意味でも抑制的な記述に務めたことで、記述の内容のみならず、筆致から学べることも少なくない。その辺りは、下記の版元の幻冬舎のサイトで冒頭の部分を読むことができる。ぜひ一度、目を通してみてほしい。
西田亮介 民主主義は、みんなの心の中にある<終戦直後の社会科教科書『民主主義』が熱い!>幻冬舎