「民主主義の共通感覚」と『民主主義』−−かつての中学、高校教科書『民主主義』復刊に寄せて
先日、幻冬舎新書として、かつての1948年から1953年まで、実際に用いられた中学、高校教科書『民主主義』を、『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』として復刊した。
これは極めて稀有なテキストなのだが、その理由は幾度かにわたって、少し掘り下げてみたい。そもそも、かつて中等教育の正式科目として、「民主主義」があり、そのための正式な教材として、『民主主義』が存在したことをご存知の方はどれほどいるだろうか。たとえば、社会科教育の分野では「テキストが存在した事実」については、知識として学ぶそうだ。だが、関係の人たちに聞いてみても、どうやら実際にページを開いて、そのテキストを読むというわけではないようだ。
日本国憲法普及過程の普及教材ということでいうと、現在では岩波文庫に収録されている『新しい憲法のはなし』などが有名である。しかし、これと比較してみても、『民主主義』は興味深く、また現在に復刊する意味があると考えるので、簡潔に述べてみることで、今回の復刊の意図を紹介したい。
この本が配布された1948年は、ひとことでいうと、日本人が、そして日本社会が全体として民主主義に向き合った/向き合わざるをえなかった時期といえる。「民主主義に向き合った/向き合わざるをえなかった」と書くのは理由がある。改めて確認するまでもないが、太平洋戦争の敗戦を経験し、戦後の混乱期にあたり、さらにGHQの統治のもとにあった。そのもとで、急速に、大日本帝国憲法に基づく社会システムが書き換えられていく。むろん、民主主義の伝統は、日本の戦前、戦中にも存在したことは事実だが、生活者が現実味をもって、直接、経験的にそれと向き合ったのは、やはり敗戦後、改めて日本社会の外部であった占領軍の手で「民主主義」が持ち込まれ、日本国憲法とともに社会に普及させたことが主要因となっているというほかない。
吉田茂や彼の右腕であった白洲次郎が手記や回顧録に記しているように、また後世の研究者らが丹念に明らかにしてきたように、日本国憲法の成立過程に、少なからず外圧があったことは現在では、思想の左右問わず、ほぼ合意されるところである。また、戦争への動員に教育を通して協力したことへの反省から、終戦直後、当時の文部省は「新日本建設の教育方針」を提示している。また「民主主義」と戦後民主主義的価値観の普及啓発は、民間情報教育局からの要求でもあった。こうして教育をとおして、また社会教育、パンフレットの配布などを通じて、それらの宣伝が大々的に行われた。
その諸産物のひとつが、『民主主義』なのだが、このテキストは、他の書籍と一線を画している。他のパンフレットなどが日本国憲法の平易な言い換えに終始するのに対して、このテキストはより踏み込んだ、なんともいえない筆致をとっている。たとえば、このテキストは、以下のような書き出しで始まっている。
今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もとないといわなければならない。
では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。
表現するのが難しいのだが、全体を通してある種の手触りや質感が感じられ、現代の教科書と比較しても、興味深い記述が続く。もちろん、古代ギリシャやアメリカ、フランスなど民主主義の歴史や、三権分立といったテクニカルな記述も網羅されている。このような記述が可能になったのは、法哲学者尾高朝雄ら当時の一級の知識人が執筆に関わっていることや、ある種の経験に裏打ちされた社会の風潮を敏感に反映し、さらにそれが民間情報教育局や政治の意向とも合致したからというほかないだろう。
日本政治には、民主主義の共通感覚とでもいうべきか、ある種の手触りや固有性、質感が乏しいように感じられる。そこには前述のような歴史的な経緯もあれば、政治と教育(さらに文部省と現場の教師等)のその後の激しい対立の歴史を踏まえた両者の「中立」なども関係する。そのなかで、『民主主義』は、日本人が、そして日本社会が全体として民主主義に向き合った/向き合わざるをえなかった時代のある種の共通感覚を感じ取ることができる稀有な教材といえる。
ただし、ここでいいたいのは、『民主主義』の内容を継承すべき、という素朴な話ではない。参照して、議論し、超克の素材とせよ、ということである。この点の詳細は改めて言及することにしたいが、素朴な継承はいうまでもなく陳腐である。たとえば安全保障環境は変化した。テロのリスクも顕在化しておらず、そもそも冷戦の足音がようやく顕著になってきた時期でもあるから、その内容や記述を直接引き継ぐというのはおかしい。この教材も参照する素材のひとつとし、執筆の時代背景、このテキストが書かれた経緯、そしてその後の経緯と現在までの政治と民主主義の発展と課題等々を議論し、ある種の「相場観」でもある「民主主義の共通感覚」を醸成すべきではないかということである。
そのようなことを議論の遡上にあげるのは、憲法改正の発議が迫っているように思われるからだ。簡潔に確認しておくと、日本国憲法第96条は、憲法改正の発議を衆参両院の3分の2、その後の国民投票の過半数で可能と規定している。衆院は現在すでに改憲を主張する与党などで3分の2を満たしているから、今夏に迫る参院選の結果次第ではーーたとえば、前回と同程度に自公が議席を獲得し、おおさか維新など改憲を主張する勢力が少数議席を獲得すれば、十分に3分の2を満たしうる。そして、2017年は、日本国憲法施行から70週年ときりもよい年である。このような諸条件に目を向けてみると、これまで日本社会が一度も経験していない憲法改正の発議というのは、かなり現実味を帯びているようにも思われる。
改憲を選択するにせよ、護憲を選択するにせよ、日本社会と日本人が、現行憲法下において、実質的にははじめて、直接憲法と向き合い、そのありようを選択することになる。その結果、護憲が選ばれるにせよ、改憲が選択されるにせよ、日本の民主主義のあり方にとって重要な機会であることは疑いえまい。そこで思い出されるのが、先ほどの「民主主義の共通感覚」の不在という主題である。憲法改正の是非を問う国民投票の具体的手続きを定めた国民投票法の規制は、一般の選挙の手続きを規定する公職選挙法よりもかなり弱いものになっている。投開票日の投票運動が可能であったり、配布物の制限の乏しさ、テレビ広告などについて、むしろ似ているのは、大阪都構想の是非を問う住民投票を規定した大都市地域特別区設置法であろう。これらを踏まえると、憲法改正の発議がなされた状況のもとでは、大阪都構想の是非をめぐって、肯定派と反対派が大阪で繰り広げられた大規模な選挙戦、メディア戦が全国規模で、より激烈に繰り広げられるとも考えられる。
ある意味では、アメリカの大統領選挙とも似ているが、「民主主義の共通感覚」のみならず、民主主義や政治の状況を理解する道具立てさえ乏しいのだとすれば、そのような「有事」のなかで、生活者は冷静に憲法改正の是非を判断することができるのだろうか。そもそも関心を持つことさえできるのだろうか。やや壮大な話になってきたが、しかし現実味を帯びてきた、このような政治的状況に対応するためには、一見遠回りだが、着実に「民主主義の共通感覚」や「民主主義を理解する道具立て」を社会が、生活者が獲得していくことにほかならないように思える。そのためのひとつの手がかりとして、『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』は貢献できるところが少なくないように思う。
今回の復刊にあたって、分量の関係から、現代的意義や筆者の個人的関心(宣伝とメディアなど)に基いた抄録とせざるをえなかった。また冒頭と巻末に解説を加え、読みやすくするように改行を増やし、また各章の終わりには「考えてみよう」という問いを立ててみた。大学の基礎ゼミや初年次教育、あるいは中等教育の総合学習の時間、社会教育の現場などにおいて、誰でも手軽に、議論やワークショップをできるようにという試みである。そして、なにより新書という、比較的安価で部数も出て、流通しやすいパッケージを採用した(これが可能になったのは、幻冬舎のおかげである)。なお、本書は原著を古本で比較的安価で入手できるし、原著にかなり忠実な収録ということでは、径書房版が発売されている。筆者も数年前、この版で初めて、本書を読んだ。もし気になった方はあわせて手にとっていただきたい。