関ケ原合戦で「身の毛も立つ」と恐れられたのは… こんな部下がほしい戦国最強の軍師4選
閉塞が漂う現代日本。未来を切り開く人材はいないのかと思うばかりである。戦国時代には、大名のもとに軍師が存在し、戦争だけでなく様々なシーンで大活躍した。今回は、4人の軍師を紹介することにしよう。
■山本勘助(1493?~1561)
山本勘助は、武田信玄の軍師として知られている。かつては、『甲陽軍鑑』のような後世の史料でしか確認できなかったので、その存在が疑問視されてきたが、最近になって一次史料が確認され、実在は間違いないと指摘されている。
勘助は築城術に優れ、諸国の情勢に詳しかった。戦巧者でもあり、信玄から重用れた。「キツツキ戦法」など戦いにも優れており、合戦において、信玄を支えたのだ。つまり、勘助は築城、情報収集、戦いで評価されたことになろう。
「キツツキ戦法」とは、きつつきが木をつつき、驚いて虫が穴から飛び出して来たところを捕まえることにヒントを得た作戦である。
なお、辞書『大言海』によると、「あてずっぽう」を意味する「山勘(やまかん)」とは、山本勘助の名が語源であるという。
■黒田官兵衛(1546~1604)
黒田官兵衛は、豊臣秀吉の軍師として知られている。その生涯は『黒田家譜』に書かれているが、奇想天外な戦法などは、荒唐無稽で信が置けないところもある。
天正5年(1577)以降の中国計略において、官兵衛は秀吉に従って、敵を味方に寝返りさせる調略戦で大いに貢献した。また、少ない軍勢を補うため、人形を兵士に見立てて、敵を追い払ったという逸話もある。
官兵衛は単に戦というよりも、優れた交渉術や情報収集で秀吉を支えたのである。これにより、播磨の小大名にすぎなかった官兵衛は、秀吉から豊前中津(大分県中津市)に12万石を与えられた。
しかし、官兵衛はキリスト教を信仰していたので、やがて秀吉から遠ざけられたという。秀吉は、伴天連追放令を発していたからだ。
朝鮮出兵の際、官兵衛は一時帰国して秀吉に面会を求めたが、秀吉から「無断帰国である」と激しく叱責された。こうしたことも重なって、官兵衛は関ヶ原合戦で東軍に与したのだろう。
■安国寺恵瓊(1539?~1600)
安国寺恵瓊は、毛利輝元の軍師として知られている。戦争における指示よりも、交渉術に優れ、情報収集にも長けていた。各地に出掛け、貴重な情報を毛利氏に伝えた。のちに、豊臣秀吉からも重用された。
恵瓊には、類稀なる先見性もあった。織田信長がやがて足元をすくわれて没落し、秀吉が代わりに台頭することを予言して見せたのである。粗野な武将が多いなかで、恵瓊の最大の強みはインテリジェンスにあったといえよう。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で、毛利氏は西軍の総大将に迎えられたものの、合戦の前日に輝元は東軍に寝返っていた。
このことを恵瓊は知らず、のちに東軍に捕らえられて斬首された。恵瓊は先見性に優れていたが、自分の将来は予想できなかったのだ。
■島清興〔左近〕(1540~1600)
島清興は、石田三成の軍師として知られている。以前は「左近」と呼ばれていたが、今ではたしかな史料に基づき、「清興」と呼ぶのが正しいと指摘されている。その生涯は史料が乏しく、不明な点が多い。
清興は三成がまだ4万石しか領していない頃、その半分の2万石で召し抱えられたという話がある。清興は、三顧の礼をもって迎えられたのだ。しかし、この話は誤りであり、実際は三成が佐和山(滋賀県彦根市)に19万石を領してからの話だといわれている。
策略家としての側面もあり、一説によると、長束正家に家康暗殺を持ち掛け、水口城(滋賀県甲賀市)内で殺害しようとした。しかし、その動きは家康に事前に察知され、計画は失敗に終わったという逸話がある。稀代の策士であった。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で、清興は三成に従って出陣し、最期は壮絶な戦死をした。その戦いぶりは、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と徳川方の将兵を恐怖に陥れた。
清興もまた戦いだけではなく、三成の配下にあって、諸大名との交渉役を務めていた。つまり、交渉役としてもすぐれた才能を発揮したのだ。
■まとめ
俗に軍師と称される人は、その生涯に謎が多く、俄かに信じがたい逸話も多々残っている。とはいえ、その力量が大いに評価され、重用されたのは事実である。
実は、軍師という言葉は戦国時代にはなく、軍配師というのが正しい。とはいえ、彼らが頼りになったのは疑いなく、現代にも「いたらなあ~」と思うような優秀な人物であるのはたしかだ。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】