あなたの場所まで800kmを歩く。だからそれまで生きていて…。人生を重ねて演じ切った名優の思い
特大ヒットの作品は別として、このところ、日本で一定の支持を集める映画のジャンルがある。それは──人生を長く生きてきた主人公たちの作品。たとえば2023年の『パリタクシー』。終活と向き合う92歳の女性が、無愛想なタクシー運転手とパリの街を移動するうち、思いもよらぬ感動がもたらされるフランス映画。日本でもミニシアターランキングで5週連続1位を記録した。
6/7に公開される『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』も、同じような傾向で愛される作品になりそうだ。定年退職後、妻と静かな生活を送るハロルドに手紙が届く。かつて同じ職場にいて、恩のある同僚からのもので、彼女は余命わずかだという。最後に一目会いたいハロルドは、「歩いて向かうので、その間は生き続けてくれ」と伝え、なんと800kmにもおよぶ無謀な徒歩旅行に出るのだった。
原作は600万部のベストセラー(実話ではない)で、本国イギリスではこの映画版が大ヒット。多くの人の心を掴むこの物語で、主人公ハロルドを演じ切ったのが、イギリスの名優、ジム・ブロードベントである。
「ハリー・ポッター」シリーズのスラグホーン先生役などで知られ、『アイリス』ではアカデミー賞助演男優賞を受賞。そんなブロードベントにとっても、このハロルド・フライ役は俳優人生の集大成と言ってもいい。単に出番が多いだけでなく、演技のさまざまな引き出しが開き、観ているわれわれの感情を揺さぶってくるからだ。800kmを歩き通そうという強い意志から、人生の哀感、後悔、人間や動物への慈しみに至るまで“神業”と呼んでもいい佇まいが、スクリーンに刻み込まれた。
俳優と役の奇跡のような一体感。それが『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』の魅力だが、ジム・ブロードベントに託されたのは、必然の流れだったという。映画の前に本作のオーディオブック(朗読)が作られ、そのナレーションを担当していたからだ。
「原作者のレイチェル・ジョイスは俳優で、私は40年くらい前から彼女を知っています。かつて私の娘の役を演じたことがあるんですよ。その縁もあってオーディオブックの仕事を頼まれ、私もハロルドのキャラクターにすぐに引き込まれました。レイチェルも執筆の際に、漠然とですが私のことを念頭に置いていたことを話しています。
そして別の映画を撮っているときに、プロデューサーから『ハロルド・フライ』の映画化権を得たことを聞かされました。そこで『私のことを頭に入れておいて』と伝えておいたところ、製作の早い段階から私がハロルド役の候補になっていたようです。原作を熟知し、オーディオブックの経験が生かされたのでしょう」
ブロードベントは役が決まった経緯を落ち着いた表情でそう語る。ふだんはメインキャラクターを支える役どころが多いジム・ブロードベントだが、本作では主役。何か心に期するところがあったに違いない。
「撮影現場のコールシート(進行予定表/香盤表)の一番上に私の名前があるのは珍しいことです。過去には誰かと一緒に記されたことはありましたが、単独でのトップは初めて。そこに責任を感じました。つねに集中力とエネルギーを維持し、前進し続けなければなりませんから。オーディオブックの仕事で原作を何度も読んでいたことで、物語の背景を理解し、セリフをどう発するかは準備できていたものの、映画の撮影では主演俳優としてハロルドが今どんな状況にいるのかをつねに把握することが重要。そこは監督の助けもあって、物語に真実味を与えられたと思います」
徒歩のみでの800kmの旅に出るハロルド・フライ。着替えも持たず、お金もごくわずか。当然のごとく、どんどん観ていて辛い外見になっていく。撮影自体も肉体が酷使され、さぞ疲れたのではないだろうか。そんなこちらの質問にブロードベントは、悠然と答えを返してくる。
「いや、見た目ほど厳しいものではないですよ。たしかに100mくらい歩き続けるシーンもありましたが、終われば椅子に座って、カメラのセッティングを待つわけです。動き続ける撮影スタッフに比べれば、私の労力なんて大したことはない。実際に歩数計を付けて過ごしたところ、彼らの方が私よりはるかに高くカウントされてましたから」
ハロルドのロードムービーということで、劇中にはイギリス各地の風景が収められ、ちょっとした旅気分も味わえる。
「11月のデボン州(イギリス南西部)の南海岸から始まり、スコットランドへ向かう旅のプロセスは、時系列に撮影されたことで、私はハロルドの心情の変化に寄り添って演じることができました。そして旅先でのエピソードには、私自身の思い出を重ねたりしています。まさに感情的で、パーソナルな旅の情景になったと言えるでしょう」
そしてハロルドの旅には、過去のシーンも挿入される。彼がなぜそこまでした過酷な使命を自らに課したのか。それが少しずつ明らかになり、エモーショナルなムードが高まっていくのが本作の持ち味だ。ジム・ブロードベントは、ハロルドのひと昔前の若い時代も自ら演じている。そして、その違和感のなさに、映画を観るわれわれは驚くことになる。
「回想シーンは、旅の部分をすべて撮り終わって、最後に撮影しました。ですから髪をきれいにカットし、若返って演じたのです。ハロルドの若い時代も脚本に従って演じただけ。いつもどおりのプロセスでしたよ。助けになったのは、過去のシーンを一緒に撮った共演者たち。彼らの才能のおかげで、その時代を表現できたのだと信じています」
あくまでも謙虚である。この『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』の物語が、なぜここまで本を読んだ人、映画を観た人を夢中にさせているのか、その理由についても「わからない」と何かを繕うことなく即答しつつ、ブロードベントは次のように続ける。
「多くの人が人生で後悔や困難を経験してきています。それらをハロルドの旅の行程にシンクロさせているのかもしれません。私の人生もハロルドのそれと並行していると感じられる瞬間がありましたし、つまるところ、この作品は“真実”を描いているからじゃないでしょうか」
ハロルドの人生と自身のそれを重ねたジム・ブロードベントだが、すでに仕事を引退したハロルドに対し、先日75歳になったばかりの彼は、まだまだ現役で俳優業を続けていくはずである。
「ぼんやりとですが、俳優業の引退はまだ先のことのように感じます。とは言っても、最近はそんなにいっぱい仕事はしていませんよ。毎日働かなくても幸せを満喫していますし、そんな風に過ごしていると、たまに素敵な仕事が舞い込み、うれしくなります。最近は映画もドラマも若い人に向けた作品が多いので、高齢者の役は少なくて、私の仕事もゆっくりとスローダウンするでしょう。その流れに身を任せ、空いている時間が増えれば他のクリエイティブなことでその時間を埋めればいいのです。面白い仕事をやり続ける。ただそれだけです」
『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』を観れば、ジム・ブロードベントの仕事が減るなんてことは、考えられないだろう。あくまでも自然体で、その年齢を生きる名優の姿が役と美しく重なり、多くの人の指針となるはずだ。
『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』
(c) Pilgrimage Films Limited and The British Film Institute 2022
配給:松竹
6月7日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか全国公開