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原点である「ヨネクラジム出身」の誇りを忘れずに

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
撮影:筆者

 日本フェザー級17位の中川公弘(30)。2017年8月に、54年の歴史にピリオドを打ったヨネクラジムからワタナベジムに移籍した選手である。

 中川は1991年8月25日、埼玉県旧大宮市で誕生した。日本人の父親とフィリピン人の母を持つ。

 「宅配会社で働いていた父は、僕が小学3年生の時に蒸発しました。以来、母が女手一つで僕と妹を育ててくれたんです。しゃぶしゃぶ屋のキッチンに勤めていましたが、あまり日本語が上手くなく、大変だったと思います。

 進路を決める時期となった高校3年時に、『我が家には、進学させてやれるおカネが無い』と聞かされ、当初は消防士を目指して勉強していたのですが、好きなことをやってみよう、自分ならボクシングが出来るだろうと思って始めたんです。『はじめの一歩』を熟読していたんですよ」

 アルバイト先のフィットネスジムで、スーパーフライ級の日本ランカーだった杉田純一郎と一緒になり、彼が在籍していたヨネクラジムに入門する。

 「ヨネクラは合同練習でした。13時半から、15時から、17時から、18時半からと4回に分かれていました。メニューは毎日15ラウンド。限られた時間のなかでいかに集中して動くかが、求められましたね。

 柴田国明さん、ガッツ石松さん、中島成雄さん、大橋秀行さん、川島郭志さんと5人の世界チャンピオン、プラス数え切れない日本チャンピオン、東洋チャンピオンを輩出した練習は、こういうものなのか…と知りました」

 ヨネクラ時代は6勝(3KO)3敗1分け。最後の日が訪れる3年弱は、ジムの2階にある合宿所で生活した。

 「2017年の4月に、『8月いっぱいでジムが閉まることになった』と聞かされました。信じられなかったですね。ヨネクラでの最後の試合は絶対に勝つぞ! と気合を入れていましたが、判定で負けてしまいました……」

 同僚たちは各々、伝手を頼って新たな環境を見付けていく。当時、中川は新聞配達をしており、ジムの合宿所にいるからこそ、販売店に通えた。

 「お世話になっていた町田主計先生(トレーナー)の『俺に付いてこい』という言葉を頼り、一緒にワタナベジムにお世話になることにしました。給水器を新築マンションに設置するバイトに変わり、現場仕事の後、五反田のジムに通う生活です。

 ワタナベジムにはチャンピオンがゴロゴロいて、とても活気があります。自分で練習メニューを組めるということは、いくらでも追い込めるし、逆に手を抜くことも出来る。全てが自分の責任だし、自分に返ってくるんですよね。

 ライト級世界ランカーの三代大訓選手からは、いつも刺激をもらっています。何度か一緒に銭湯に行き『中川さん、運動神経はいいんだから、もっと考えないと。ジャブ一つでも打ち方、タイミング、ポジション取り、幾つもバリエーションを作るべきですよ』とアドバイスされました。また、僕がケガをしたまま試合に臨むことになった際にも『これで勝てば、どんな試合も乗り越えられますよ』と励ましてくれました。本当に有難く思っています」

OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座を返上し、ステップアップを目指す三代は現在WBOライト級13位  撮影:筆者 
OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座を返上し、ステップアップを目指す三代は現在WBOライト級13位  撮影:筆者 

ワタナベジムの選手となってからは、2勝(1KO)2敗1分け。

 町田トレーナーは言う。

 「パンチがあるので、それを生かせればと。もう一つ、二つ、自分の殻を破れるかが勝負になりますね」

 中川に目標は? と訊ねると「日本チャンピオンです!!」と即答した。彼はヨネクラジムが閉鎖された後、何度か原点の地を訪れている。更地になり、マンションが建った様を目にしながら、自身に飛躍を誓った。今もヨネクラのOBたちが熱い視線を注ぐ中川。次戦ではどんな戦いを見せるか。

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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