【光る君へ】藤原伊周・隆家兄弟の左遷後、兄弟の道頼と頼親はどうなったのだろうか?
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周・隆家兄弟の左遷に注目が集まった。実は、伊周・隆家兄弟には母が違う2人の兄弟がいたのだが、どういう人生を歩んだのか考えることにしよう。
摂政・関白を歴任した藤原道隆には、高階貴子(高階成忠の娘)、藤原守仁の娘、伊予守奉孝の娘、橘清子(橘好古の娘ヵ?)、対御方(藤原国章の娘)という5人の妻がいたといわれている。
当時、正室のほかに、側室を持つことは決して珍しくなかった。それは、後継者たる男子を残すという意味もあった。
長徳の変で左遷された藤原伊周・隆家は、道隆と貴子との間に誕生した子である。貴子は優れた和歌を詠むなど、才媛として知られていた。当時、母によって、誕生した子の将来が決定付けられることがあった。
貴子は定子ら中宮となる娘を産んだので重要視され、その影響から伊周・隆家兄弟が厚遇された。ところで、伊周・隆家兄弟の2人の兄弟は、どういう人生を歩んだのか考えてみよう。
◎藤原道頼(971~995)
道頼は、道隆と藤原守仁の娘との間に誕生した。長男だったが、道隆は貴子との間に生まれた子を厚遇したので、道頼は長男ながらも後継者の候補にはならなかった。
道頼の母は永延2年(988)に没したので、その影響もあったと考えられる。しかし、兼家(道隆の父)は道頼をかわいがっていたこともあり、養子に迎えたのである。
道頼は後継者になる道が断たれたとはいえ、出世は順調だった。寛和元年(985)には従五位下に叙されたが、この年には3歳年下の伊周も同じ位に叙された。その後、道頼は順調に出世し、正暦2年(991)には伊周と同時に権中納言に任じられたのである。
ところが、翌年、伊周は権大納言に任じられたので、道頼は後塵を拝することになった。長徳元年(995)6月、道頼は伊周の位を追い越すことなく、父の後を追うようにして亡くなったのである。
◎藤原頼親(972~1010)
頼親は道頼の1つ年下の弟であるが、母は不詳である。頼親の前途は暗かった。永祚元年(989)、頼親は五位に叙されたが、同じ年に弟の伊周は、早くも従四位下・右近衛少将に叙位・任官されていた。
長徳元年(995)、ようやく頼親は左近衛中将に任じられたが、すでに弟の伊周は内大臣になっていたのだから、昇進の差は歴然としている。
同年に父の道隆が病没し、翌長徳2年(996)に伊周・隆家兄弟が左遷されると、中関白家(道隆を祖とする藤原氏の一族)の没落は決定的になった。
結局、頼親は公卿に列するという念願が叶わず、無念の思いを抱きながら、寛弘7年(1010)に亡くなったのである。