【深読み「鎌倉殿の13人」】東国の御家人は、源頼朝が朝廷に接近するのを嫌がったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の22回目では、東国の御家人が源頼朝が朝廷に接近するのを嫌がっていた。それは事実と考えてよいのか、詳しく掘り下げてみよう。
■東国の豪族の心意気
源頼朝が東国の豪族に支えられ、復活したのは揺るぎない事実である。東国の豪族が頼朝を支えたのは、頼朝が彼らの利益に繋がるからだった。また、当時、所領の領有権をめぐって、平家方と争っていた豪族がいたのも事実である。
なかでも上総国に基盤を持つ上総介広常は、頼朝が朝廷と接触するのを非常に嫌がっていた。慈円の『愚管抄』巻6には、広常の「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。誰カハ引ハタラカサンナド申テ」という有名な言葉を載せている。
長らく、この言葉は東国の豪族の気持ちを代弁したもので、彼らは東国に自分たちの王国を作ろうとしたと解した向きもあった。「朝廷、何するものぞ!」という強い心意気である。
しかし、現実問題として、政治の頂点に立っていたのは天皇だった。たとえば、平清盛がいかに専横を極めていたとはいえ、天皇から太政大臣の位を与えられていた。つまり、天皇から認められなければ、東国の独立国家など夢物語に過ぎなかったのである。
■頼朝の戦略
いかに頼朝が東国における平家の勢力を一掃し、独立を主張しても、極論を言えば単なる「ならず者」の集団に過ぎなかった。頼朝が東国の支配権を主張するには、朝廷のお墨付きが必要だったのだ。
その第一弾が寿永2年(1183)10月、頼朝が朝廷から与えられた宣旨である。これ以降、頼朝は東海道、東山道、北陸道の年貢などを朝廷に進上し、東国の経営を認められた。これにより、これまで非公式だった頼朝の存在は、公認されたということになろう。
文治元年(1185)3月、源義経、同範頼の率いる軍勢は、平家を滅亡に追い込んだ。しかし、この直後、頼朝は義経の無断任官などに激怒し、その関係が決裂した。義経は頼朝に挙兵したが失敗し、都落ちしたのである。
同年11月、頼朝は諸国への守護・地頭の設置を認められた。これは、逃亡した義経らを捕縛するという名目だったが、実際は全国支配を念頭に置いたものだった。
従来、建久3年(1192)7月に頼朝が征夷大将軍に任じられたときを鎌倉幕府の成立とみなしていたが、現在では文治元年(1185)説が有力視されている。
頼朝は平家追討を足掛かりにしつつ、木曽義仲や義経の追討などを理由にして、朝廷にさまざまな権利を認めさせた。こうして頼朝の権力の及ぶ範囲は、東国というローカルな地域だけに止まらなかったのである。
■まとめ
冒頭に掲げた広常の言葉は非常に有名であるが、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないだろう。頼朝のみならず、東国の御家人は朝廷のお墨付きがなければ、どうしようもないことを知っていた。
したがって、御家人は、頼朝が朝廷と接触することを拒みようがなかったというのが現実だったと考えられる。