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【日本史】もはや戦国大名より強い?織田信長もびっくりな戦闘力を秘めていた、桁ちがいの寺院勢力・3選

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

戦国時代の天下取りレースと言えば、誰もが武将たちの勢力や能力を見比べて、考えるところでしょう。

しかし、例えば織田信長が活躍する前後の時代、有力と言われていた戦国大名に匹敵・・もしくは、それ以上とも見なせる力を持った組織が、存在していました。

それは仏教勢力です。有力な寺院ともなれば財力や兵力、さらには率いる人物の軍才に至るまで、その辺の大名をも上回ることがありました。

いったい何故、それほどの戦闘力を秘めていたのでしょうか。その背景も含め、この記事では特に際立つ、3勢力をピックアップしてご紹介したいと思います。

比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)~日本の影の実力者?~

今でも有名な天台宗の総本山であり、日本史の勉強で“開祖は最澄(さいちょう)”と暗記した方も、多いのではないかと思います。

位置的には京都の北側、陰陽道に照らすと“仇をなす外敵が来る”と言われる鬼門の方角に居を構えていたことから、古来より“平安京の守護者”として、権威のある存在でした。

お寺を運営していくための領地“荘園”も持ち、時代によって京都の周辺では様々な騒乱が勃発しますが、武力で攻められても対抗できるように、僧兵の集団を組織していました。

有名なところでは、かの武蔵坊弁慶も比叡山の出身とされ、そのイメージ通り個々の僧兵も武術に秀でていたのです。

また“強訴(ごうそ)”と言い、たびたび政治にも物申し、かつて白河上皇は「私の思い通りにならないもの3つ」の1つに、比叡山の僧侶を挙げたと言われるほどです。

さて、比叡山と言えば信長との対立で有名ですが、実はそれ以前にも室町幕府6代将軍の時代、政治への口出しに怒った将軍が僧侶を処刑し、これに激怒した延暦寺との間で戦闘も勃発。お寺の建物が燃えるなど、時の権力者との衝突は幾度かありました。

戦国時代になると織田家が上洛を果たしますが、信長が敵対していた朝倉家や浅井家を撃破すると、その残党軍が懇意にしていた比叡山へ逃げ込みました。

信長としては当然、京の都はこれ以上ないほど、しっかりと統治しておきたい重要地域です。その間近に僧兵も加えた敵の一大勢力が鎮座していては、たまったものではありません。

「我らの戦いには関与しないように」などの勧告を行いますが、聞き入れられず。ついには大軍を攻め込ませ、武力で屈服させるに至りました。

この行為は後世に“非道”の象徴として見なされることが多いですが、一方で「そこまで手ひどい行為はしなかった」「織田家の立場であれば仕方なかった」などと擁護する評価もあります。

時が経って豊臣家や江戸幕府の時代になると、両者とは良好な関係を築き、お堂の再建も支援されました。戦乱もなくなったことから、かつてのような戦力は、持たなくなったと伝わります。

今では京都の美しい観光名所、また由緒ある仏教の修行道場として信仰されるなど、多くの日本人に親しまれ続けています。

【石山本願寺(いしやま・ほんがんじ)】~その気になれば天下も狙えた?~

戦国ファンの間で有名なゲームに“信長の野望”と言うシリーズがありますが、その中でも本願寺は1勢力として登場します。

作中で登場する武将には能力値が割り当てられており、本願寺の麾下は正確には武将ではなく僧侶かもしれませんが、頭1つ抜けたパラメーターの要人が多数。

ちなみに筆者の知り合いには、日本史を専門に勉強する中国人がいるのですが、彼がゲームをプレイすると、本願寺について「このお坊さんたちは強すぎます。彼らは天下を統一できます」と言いましたが、これは決してオーバーではなく、作中でも屈指の戦力を誇って登場しています。

これは決して史実とも離れていない表現であり、織田信長を生涯で最も苦しめたのは、本願寺勢力と言っても過言ではありません。財力、求心力、兵力ともに高く、本拠の石山本願寺は“ 天下無双の要害”とまで評された、防御力を誇りました。

ちなみに、その跡地には後に大阪城が建てられたと言われ、地域的にもどれほど重要であったかを物語っています。

また本願寺の浄土真宗は信徒も多く、ひとたび号令をかければ大勢の民百姓が、味方として馳せ参じるほか、外交的にも武田家・毛利家・浅井家など有力大名と結んで連携。

それに加え、当時でも最強レベルの傭兵集団“雑賀衆(さいがしゅう)”も味方しており、彼らは鉄砲の保有数、射撃能力ともにずば抜けていました。戦場では信長本人も足を撃たれ、手傷を負わされるほどの死闘となっています。

もともとが仏教勢力であり、さすがに全国制覇は視野になかったかも知れませんが、単純な潜在能力だけで見れば、本当に天下を狙えるレベルであったかも知れません。

【筒井順慶(つつい・じゅんけい)】~信徒から戦国大名が誕生~

ここまで仏教勢力を戦国武将と比較する視点でお伝えしてきましたが、その力が強まるあまり、寺院勢力から戦国大名が誕生した事例もあります。

古来より大和の国(※今でいう奈良県)では“興福寺(こうふくじ)”の勢力が強く、実際はほぼ一帯を統治している状態でした。

そうした中で興福寺の信徒から誕生したのが、筒井家と言う大名です。戦国時代には同地域の支配をめぐり、松永久秀という武将と激しい戦いをくり広げました。

ちなみに2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、秀吉の弟の豊臣秀長が主役ですが、彼は豊臣政権が発足すると、大和の国の統治を託されています。

前述の通り同地域は、古来より仏教勢力が強力に根づいており、統治が極めて難しいと言われていました。天下人の秀吉でさえ人は選ばなければならず、自身が最高の信頼を寄せ、かつ政治能力の極めて高い秀長を、据え置いたという事実がありました。

・・さて、戦国時代に当主であった筒井順慶は、松永久秀のバックにいる織田家とは対立関係にありましたが、のちに明智光秀の仲介を得て信長に接近。逆に懇意となります。

松永久秀が信長に謀反を起こすと、討伐軍の主力として参加しているほか、あまり知られてはいませんが、前述の本願寺との戦いや長篠の戦いなど、重要な合戦にも援軍として出陣しています。

この点は同じ仏教系勢力でも、比叡山延暦寺や石山本願寺とは、違った道を歩んだと言えるでしょう。

後に本能寺の変が起こると、恩義のある明智光秀と秀吉の双方から、味方に付くように誘いを受けます。

一族の存亡もかかった重要な選択、悩みながらも一軍を率いて出陣し、要所に陣取りました。ここで筒井軍がどちらかになだれ込めば戦局に大きく影響するため、両陣営をやきもきさせます。

しかし山崎の合戦の終盤まで旗色を鮮明にせず、このエピソードから後世には“洞ケ峠(ほらがとうげ)を決め込む ”という、ことわざが誕生しました。

中立であったとはいえ、さすがに両軍を天秤にかけた行動は、秀吉にすれば苦々しく、戦いの後に筒井順慶を叱責します。

ここで筒井順慶は養子を人質に出した上で、臣従を誓いました。この段階では、さすがの秀吉も興福寺とは揉めたくない事情もあってか、秀吉も筒井家との関係継続を考え、引き続き大和の国の統治を安堵したのでした。

日本に根づく仏教の力

かつて聖徳太子は仏教を規範に日本を治める方針を決め、そこから国を挙げて寺院を建立した時代がありました。

古来より皇族と結びつきの強いお寺もあり、時には政治の方針にも意見できる“権威”のほか、荘園の運営で力を蓄え“財力”“兵力”と3拍子そろい、強大な力を有しました。

また僧侶は当時の知識階級であり、かの上杉謙信があれほど強かった背景にも、幼少の頃に禅寺で教わった兵法や、精神力が大きいと言われています。

このように戦国時代の主役は大名とは言え、仏教は武将たちの進退に強力な影響を与え、歴史の流れに大きく影響していたことも、ひとつの側面であったと言うことが出来るでしょう。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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