【光る君へ】舞の披露。明暗を分けた源倫子の息子と源明子の息子
今回の大河ドラマ「光る君へ」は藤原詮子の「四十の賀」の場面があった。そこでは、詮子の40歳を祝うべく、源倫子の息子と源明子の息子がそれぞれ舞を披露したが、明暗が分かれたので取り上げることにしよう。
晩年の藤原詮子は病気に悩まされたが、40歳になり「四十の賀」を催すことになった。その記録は『日本紀略』のほか、『権記』、『栄花物語』などにも記録されている。
詮子の「四十の賀」が催されたのは、長保3年(1001)9月14日のことである。もちろん、詮子の弟の道長も列席し、ほかには藤原公任、藤原行成、藤原能通らも祝いに馳せ参じた。
翌月、一条天皇は土御門邸に行幸し、母である詮子の「四十の賀」に参列した。その記録は『日本紀略』のほか、『権記』、『小右記』などにも記録されている。
その際、詮子の40歳を祝うため、舞を披露したのが源倫子の息子(のちの藤原頼通)と源明子の息子(のちの藤原頼宗)の2人である。2人とも道長にとって、かわいい我が子である。
2人は見事な舞を披露したが、一条天皇が褒めたのは源明子の息子(藤原頼宗)のほうだった。その結果、道長は非常に不愉快になったのである。これには、何か理由があったのだろうか。
そもそも倫子は正室であり、父の雅信は栄達を遂げた人物である、一方の明子は側室であり、父の高明は謀反の嫌疑を掛けられて失脚した人物である。同じ妻とはいえ、倫子が優先された。
当時、母の家柄によって、子の運命は左右され、その後の出世にも大きく影響した。道長にすれば、正室である倫子の息子頼通を後継者と考えたと推測され、それはその後の頼通と頼宗の昇進スピードを見れば明らかだった。
事実、頼宗は最終的に従一位・右大臣に叙位・任官されたが、その間の昇進スピードは、明らかに倫子の息子の頼通・教通よりも遅かった。道長にすれば、後継者候補の頼通の舞が褒められなかったので、非常にがっかりしたのだと考えられる。
なお、長らく病気がちだった詮子は、長保3年(1001)閏12月22日に藤原行成の邸宅で亡くなったのである。