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幸英明騎手はなぜ記念撮影に常に納まるのか? その理由を本人が語る

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ホッコータルマエとのコンビでは3年連続でドバイワールドCに挑戦した幸英明

忙しかった2月の最終週

 1976年1月生まれで現在45歳の幸英明。

 スティルインラブで牝馬3冠を制したり(2003年)、近年ではジュールポレールでヴィクトリアマイル(G1)を勝利(18年)して穴をあけたり、年間騎乗1000回突破を複数回記録するなど、玄人好みのするベテランジョッキーだ。

 そんな幸が大忙しだったのが、2月の最終週だ。同月末日となった日曜日の開催は、この日を最後に勇退した角居勝彦や、定年を迎えた松田国英ら複数の調教師が引退。幸にとって縁のあった西浦勝一もターフを去った。

西浦調教師(左)と幸
西浦調教師(左)と幸

 「本当にお世話になったので花束の贈呈をやらせてもらいました。コロナ禍ということもあり、お別れ会などが出来なかったので、挨拶をして、記念写真も一緒に撮らせていただきました」

 この週、幸がフレームに納まったのはこの時だけではなかった。前日の土曜日には北村友一がJRA通算800勝を達成。この記念プレートを持ったのも彼だった。

 「そういう記念の撮影にはなるべく入るようにしています」

 自らを「あまり人前に出るのは得意ではなく、申し訳ないけど取材も結構、お断りしているんです」と語る幸。ところが目立ってしまうにもかかわらず記念撮影には「なるべく入るようにしている」理由は、1人のジョッキーの「忘れられない行動」(幸)と、昔から言い聞かされてきたある言葉が幹となっての所作だった。果たしてそれはどのジョッキーのどんな行動と、誰に言われたどのような言葉か。本人の弁を元に紹介しよう。

2月27日の阪神競馬場でJRA通算800勝を達成した北村友一騎手の記念プレートを持つ幸騎手(撮影;東京スポーツ新聞社)
2月27日の阪神競馬場でJRA通算800勝を達成した北村友一騎手の記念プレートを持つ幸騎手(撮影;東京スポーツ新聞社)

世界のニシウラとのエピソード

 鹿児島で生まれた幸は父の幸一が新聞販売店を経営。競馬とは無縁の家庭で3人きょうだいの末っ子として育てられた。実家の近くには馬の生産牧場があったが、彼をこの世界にいざなったのはそれとは全く関係のない出来事だった。それは中学3年の時。母の良子が体調を崩して入院した。病院を見舞うと、1人の男に声をかけられた。

 「当時、僕が小柄だった事もあり“騎手”を勧められました。その人は牧場関係者で、落馬で怪我をしてたまたま母と同じ病院に入院していたんです」

 “騎手”が何であるかは、父が競馬ファンだったため知っていた。その父に相談すると反対される事もなく話はスムーズに進んだ。競馬学校を受験すると合格。初めて馬に乗ったのは入学後。高い目線に驚き「続けられない」と感じた。しかし……。

 「途中で辞めて高校に入り直したら1歳下の人達と同学年になります。それを考えると辞める勇気も湧きませんでした」

 結果的に3年間で卒業。現在は調教師となった渡辺薫彦や吉田豊らと共に94年、騎手デビューを果たした。

 「師匠は谷八郎調教師。昔は厳しかったらしいけど、僕がデビューする頃には年齢もいっていたせいか、優しくて、かわいがっていただきました」

 幸の人柄か「色々な先生に面倒を見ていただけました」と語る。その1人である松元省一にはスティルインラブの主戦を任され先述した通り牝馬3冠を手にした。そして、先出の西浦勝一にもまた「お世話になった」と語る。

 「自厩舎の谷先生以外では、松元省一厩舎と西浦厩舎の調教によく乗らせてもらいました」

 騎手時代は日本馬として初めてジャパンC(G1)を制覇したカツラギエースの主戦でもあり“世界のニシウラ”と呼ばれた西浦は、調教師になった後も、世界を目指した。13年にはケイアイレオーネでドバイのUAEダービー(G2)に、翌14年からは3年連続でドバイワールドC(G1)に挑戦。タッグを組み海を越えたのはいずれも幸だった。

ドバイワールドC参戦時のホッコータルマエと幸
ドバイワールドC参戦時のホッコータルマエと幸

 「勝って恩返しを出来なかったのは残念でしたけど、毎年のように行かせていただき、良い経験をさせていただきました」

 ホッコータルマエと西浦に関しては「こんなエピソードがあります」と続ける。

 「タルマエに乗り始めてまだG3を勝つかどうかという時期に、西浦先生が仲の良い人達に『この馬で幸にGⅠを勝たせる』と言ってくださったそうです」

 本人からではなく、回りまわって他の人の口からその話を耳にした。それだけに感謝の念は尚更強くなったと言う。

ドバイでの西浦と幸
ドバイでの西浦と幸

後輩騎手のある行動と昔から言い聞かされてきた言葉

 それを聞けば西浦に対する最後の花束贈呈や記念撮影もむべなるかな、と思えるが、先述した通り前日には北村友一の記念写真にも納まっている。その理由はある後輩ジョッキーの行動に刺激を受けた事に端を発していた。

 「現在は記念勝利とかで多くの騎手が一緒にお祝いをしながら写るのが定着しているけど、昔は本人だけでした。でも、何勝の時か忘れたけど、僕が区切りの勝利の撮影をする際に、1人の後輩騎手がJRAのぬいぐるみを持って一緒に写ってくれたんです」

 皆が一緒に写るようになった足掛かりを作ったその後輩騎手とは、池添謙一だった。

 「凄く嬉しかったです」

記念撮影で他の騎手が一緒に写るきっかけを作った池添。「今でも忘れないくらい嬉しかった」と幸は言う
記念撮影で他の騎手が一緒に写るきっかけを作った池添。「今でも忘れないくらい嬉しかった」と幸は言う

 そして、騎手になるよりずっと昔に母から言われた言葉を思い出した。「母はその父、つまり僕の祖父に言われたらしいのですが……」と口を開き、当時の会話を教えてくれた。

 「結婚した時、家を建てた時、昇進した時など、家族以外で心から喜んでくれる人はどのくらいいると思う?」

 そう問われ、答えを考える幸に母は更に言葉を続けた。

 「人が幸せな時に僻んだり、妬んだりせず、一緒に心から喜べる人間になりなさい」

 池添の勇気を持った行動と母のその教えから、幸は記念撮影に一緒に納まって祝福するのを心掛けるようになった。北村の際もそうだが、自分が次のレースに騎乗していても出来る限りお祝いに駆けつけるのだった。

 現在、女の子2人と男の子1人の父でもある幸。中学3年生で乗馬をしているという男の子は、将来、騎手としてデビューするかもしれない。その時はきっと父と同じ行動をとるだろう。いや、例え騎手にならなくても、そして2人の女の子達も“人の幸せを心から喜べる人”になる事だろう。子は親の姿を見て、育つのだから……。

 ちなみにそんな血と教えを注いだ母と祖父が、現在もまだ健在である事を最後に記しておこう。

誠実な人柄でも知られる幸。今回紹介したエピソードは、自らわざわざ電話をしてきて教えてくれた
誠実な人柄でも知られる幸。今回紹介したエピソードは、自らわざわざ電話をしてきて教えてくれた

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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