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正義、嘘、SNS、宗教……誰もが何かにすがって生きる時代におきた、ある幼女失踪事件 『#ミッシング

渥美志保映画ライター

ある日突然、忽然と姿を消した幼い娘。彼女を必死に探す母親・沙織里たちの日々を描いた『ミッシング』は、主演・石原さとみの崩壊寸前の演技が大きな話題を呼んでいる、吉田恵輔監督(※「吉」は“つちよし”が正式表記)の最新作です。SNSで始まる「母親バッシング」を見ずにはいられない沙織里、心の中ではどこか沙織里を責めている部分もある夫・豊、娘と最後に一緒にいた弟・圭吾の謎の行動、沙織里たちと局上層部の間で板挟みになり葛藤する地元テレビ局の記者・砂田……映画は、事件と社会の歪みの両方に苛まれる登場人物たちの痛々しさを描き出してゆきます。この映画がすごいのは、彼らに起きたことを「他人事」として、あるときは「はけ口」として攻撃し、あるときは悲劇を「面白い見世物」として消費する、常軌を逸した社会が見えてくるところ。その裏に、吉田監督のどんな思いがあったのでしょうか。

2021年に公開された『空白』は、古田新太さん演じる事故で娘を亡くした父親が、逆恨みの激情を周囲にぶつけ続ける作品でした。今回は石原さとみさんが幼い娘が行方不明になった母親を、負けず劣らずの迫力で演じていますね。2作品の関連はどういうものですか?

吉田恵輔監督(以下、吉田)『空白』の撮影がクランクアップした翌日から、コロナで暇だったしなんか書いてみようと脚本を書き始めたんですが、その時はただ単に「蒲郡でもう1回撮影したいな」と思っていたんです。撮影中にミキサー車が海の近くを走っているのを見た記憶があったから、「ミキサー車のドライバーっていいな、冴えない男で人付き合いもなくて。そこに、以前からやりたいと思ってネタ帳に書いていた「ミッシングもので、犯人と疑われてロリコン扱いされる男」みたいなものがくっついてきた感じですね。『空白』ではちょっと描ききれていないなというものを、〈姉妹編〉みたいな気持ちでやりたかったんですよね。

「ミッシングもの」に興味を持った理由は?

吉田 自分の映画は「人は辛い悲劇とどうやって折り合いをつけるのか」というテーマを毎回やっていて、娘を事故で失った主人公を描いた『空白』も答えを出しているような作りなんですが、その答えが当てはまらない人がいるんじゃないか。「子供がいなくなってしまった親」って終わりがないじゃないですか。たとえ亡くなっていたとしても見つかったほうが楽なのか、見つからないまま生きている可能性がある方が楽なのか。

取材や資料などはどんなものを参考にしましたか?

吉田 北朝鮮の拉致被害者家族の方の手記は読みました。当初は拉致なんてわからないから、「ただ、いなくなった」と言う感じで。「中学生だし、家出でしょ」と言われることも含め、今とは異なる昭和の時代の感覚で周囲の理解はえられない。時間の流れも何も解決してくれず、1年後も2年後も3年後も、ずっとしんどそうなんです。例えばひどい失恋をしても2年後にはさすがに次の恋をしている人も多いだろうし、震災などで大切な人を失った方たちも「亡くなった人の分も生きよう」と思うタイミングがいつかくるように思えます。でも「ただ、いなくなった」という場合、その時点で時が止まってしまう。そういう人たちが、前に進む、とはいかないまでも、どうしたら光を感じられるか、というのを考えようと。すごく難しいですよね。実際にそういう経験をしている方々に「いたずらにネタにされた」と思われたくないし、傷つけるようなこともしたくないし。自分なりの、ちゃんとした誠意ある答えを作らなければいけないと思い、脚本を書いているときは結構頭を抱えていましたね。

沙織里を取材する記者・砂田を中心としたマスコミについては、どんなふうに考えて描きましたか?

吉田 『空白』では「マスゴミ」のような、雑な扱いでしか登場させられなかったので、彼ら側の事情、もしくは「自分たちもやるかもしれない可能性」みたいなものも描いてみたかったんです。制作会社スターサンズのプロデューサーの河村光庸さんは「俺はテレビ局を潰したいんだよ!」とおっしゃってたんですが、自分はそうではなく「マスコミを擁護しよう」と思ったんですよね。マスコミは「悪の組織」ではなくやる気も正義感もある。でも地方局みたいなところだと、1人に任せられてる仕事の分量がめちゃくちゃ多いので、二重チェックの余裕がないからミスの可能性も増えるし、偏向報道や不適切な表現というところまで考えが追いつかない。特定の記者が悪かどうかではなく、誰がやってもそうなってしまうんです。鶏が先か卵が先かわかりませんが、そういう中で成熟していない視聴者に届けようと思えば、どうしてもわかりやすさが求められる。そこに「ちょっと脚色する余地」が生まれちゃうんですよね。

砂田が沙織里に「悲しそうな表情」を求めたり、カメラマンがビラを丸めて転がすような映像を撮影したり…という場面もありました。

吉田 ある部分では善意なんですよ。より悲劇的な方が世の中の関心を集められるし、沙織里もそれを望んでいるわけだし。とはいえ「ヤラセ」とバレたらひどい事態になりかねない。そこらへんの葛藤ってあると思うんです。ちょうどこの間、復活した『プロジェクトX』を懐かしいなと思って見てたんですが、よく考えたらあれも「感動的な演出」を付け加え、出演者から「そんなこと言ってない」みたいなことが色々出てきて終わった番組ですよね。まあでもそうなるよな、しょうがない部分はあるよなとも思うんですよ。

砂田の演出に沙織里が乗っかるようになっていくのも、「ああああ…」と思いながら、興味深く見ました。

吉田 元日本兵の奥崎謙三さんを追ったドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』でも、後々のインタビューで奥崎さんが「自分も演じてしまってた」と言っています。人はカメラの前では素の自分ではいられず、共犯関係みたいなものが出来上がってしまう。それが悪いとは思わないですが、気持ち悪さみたいなものはありますよね。

映画の観客は「悲劇をネタにするなんて、ほんとマスゴミだな」と思っているわけですが、劇中の取材カメラマンのあるツッコミによって「見ているアンタもネタにしてるだろ!」と突きつけてきます。つまり観客も「不幸を面白がるマスコミ」と同じ視点を持っているという。

吉田 「はい、あんたも今、同じこと思ってた!」っていうね。まあ日本人の40オーバーの世代くらいしかわからないネタなんで、海外の映画祭とかだと全く伝わらないんですけど(笑)。視聴者にも共犯者性はあると思います。俺は割と「自分だけ安全圏にいるお客さん」みたいなものが嫌で、観客も引きずり込んでいくからな!と思って作っています。恋愛映画を作っていても、見ているカップルに「ここのやり取り、お前ら経験あってちょっといま気まずいだろ!」というところに落とし込みたい。俺は自分の恥部をさらけ出して書いてるけど、それは君たちの恥部でもあるからねと。

以前のインタビューで、吉田さんが「20代の時に引きこもっていた」という話を読んだので、そこに重ねて圭吾を描いたのかなと。

吉田 自分が引きこもったのは「世界とのつながりがどうこう」ではなく、純粋に映画監督を目指して面白い脚本を書くのを頑張ってた結果なんですよね。ゲームやってる場合じゃねえなと思ってゲーム機捨てて、漫画があると読んじゃうから「もういらない」って売って、それでも面白いものが書けない。あれ、おかしいな、もしかしたら本棚があるから?このコンセントがあるから?壁紙があるから?光が入ってくるから?って、壁紙をはいで黒いスプレーで窓を潰した何にもない部屋で、何も書けずに半年間体育座りしてたんです。ある時、外から戻ってきてパッと見たら、壁紙がないところに100個くらい「壁」って書いてあった。そのぐらいちょっと、なんかわけわかんなくなっちゃってましたね。

その当時、毎朝窓を開けて「吉田です!」と叫んでいたと。圭吾がかつて精神を病んだ時に街中で声を上げていたというエピソードがあり、最終的に商店街で叫び声を上げる沙織里に重なっていく、その苦しさは吉田さんが追い込まれた辛さと繋がるのかなと。

吉田 『神は見返りを求める』という作品でも、ラストでムロツヨシさんが刺されて血を流しながら商店街で踊っていて、周囲に「この人大丈夫かな」と思われているんだけど、映画の前半ではそのムロさんが、おかしなおじさんを「こういう人困るわ~」と思ってる。今回の映画でも、当初は圭吾をどこか気味悪がっていた砂田が、やがて圭吾と同じように、誰にも聞こえない呟きをブツブツ言うようになっていますよね。人間は誰かの何かを見て軽蔑したりするけれど、お前が同じようにならないとは限らないからな、と思うんです。俺自身、毎朝「吉田です!」なんて叫ぶようになると思っていなかったし。

圭吾のつぶやきも、砂田のつぶやきも、両方が声にならない声で誰にも届いていません。それはもしかしたら、言いたいことをSNSでしか言えない人と共通するものなのかなと思いながら見ました。

吉田 そう言われてみると、確かに。SNSをやるタイプではない圭吾と砂田が発している聞こえないつぶやきは、SNSで顔の見えない人が言ってるのと似たものかもしれません。結局のところ、彼らが感じる生きづらさを吐き出したいんでしょうし。思うのは「人間にはたいして想像力がない」ということを前提に、人は生きるべきなんですよ。例えば友人に何かあった時、「マジで辛いよね。俺もわかるよ」と口では言ってはみるけど、実際のところはぜんぜんわかっちゃいない。どんなに近しい存在であってもそうなんです。そういう人間が相手かまわずSNSで他者を攻撃したら、相手がどういうふうに傷つくかも、逆にそのことで自分がどういう目に合うかもわからない。相手がすごいヤバいやつかもしれないのに、全員にメンチ切ってるようなもので。

当たり前のように誹謗中傷が溢れるSNSを見ていると、嫌気が差して自分だけの世界に閉じこもりたくなりますが、それはそれで取り残されているような気持ちにもなります。どうやってバランスをとればいいのか悩みます。

吉田 一番はSNSに左右されない自分の感覚だけで生きることだけど、そういうものを明確に持てない人もいますよね。SNSに書かれていることを「便所の落書き程度だから気にするな」というのはさすがに無責任だと思うけど、SNSを見ずにはいられなくなると、地獄にハマってしまう。なんでもいいから「俺はこうだ」「これは考えたくない」「これはやりたくない」とか、そういうものがあると少し楽になれると思うんですよ。

映画には「何かにすがること」の功罪、明るい面と暗い面も描かれていると感じました。正義、善、事実だと信じたい嘘、SNS、宗教など、今の時代はなにかにすがりながら生きている人もすごく多い気がするんですが、吉田さんがそれについてなにか思うところを。

吉田 映画とかライブとか、そのときだけ辛さを忘れられると言う人もいるし、アイドルの「推し活」もそうですよね。沙織里もそれを小さな支えにしていたわけですが、事件をきっかけにトラウマにもなってしまった。でも特に宗教なんかは、それが奪われたらどうしていいかわからなくなってしまうという人も多いと思いますし……だから「何かにすがること」って結構難しくもある。ただ、 どちらかというと「すがるものは必要である」ってことを言いたいですね。何にもすがるものがないまま、今の世の中を生きるのは結構しんどいと思います。家族とか友達とか恋人とかにすがれたら一番いいんだろうけど、別にそれ以外でもなんでもいい。「はけ口」として後ろ向きに使うのではなく、それがあることで前向きになれるものが、その人を救ってくれるんだろうなと思います。

『ミッシング』5月17日(金)全国公開

ワーナー・ブラザース映画配給 (c)2024「missing」Film Partners

映画ライター

TVドラマ脚本家を経てライターへ。映画、ドラマ、書籍を中心にカルチャー、社会全般のインタビュー、ライティング、コラムなどを手がける。mi-molle、ELLE Japon、Ginger、コスモポリタン日本版、現代ビジネス、デイリー新潮、女性の広場など、紙媒体、web媒体に幅広く執筆。特に韓国の映画、ドラマに多く取材し、釜山国際映画祭には20年以上足を運ぶ。韓国ドラマのポッドキャスト『ハマる韓ドラ』、著書に『大人もハマる韓国ドラマ 推しの50本』。お仕事の依頼は、フェイスブックまでご連絡下さい。

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