台風10号に厳重警戒が必要 台風という言葉が普及して110年、与謝野晶子は「台風と云ふ新語が面白い」
台風10号が北上
小笠原近海の強い台風10号は、海面水温が29度以上の海域を北上する見込みです。
台風が発達する目安とされる海面水温は27度ですので、これよりも高い海域を進むため非常に強い台風(中心気圧950ヘクトパスカル、最大風速45メートル、最大瞬間風速60メートル)にまで発達して四国に接近する見込みです(図1)。
台風に関する情報は最新のものをお使いください。
気象庁は3時間ごとに暴風域に入る確率を予報しています。
確率の値そのものは、予報期間が長くなれば小さくなりますが、値が一番大きくなる時間帯は、台風接近の時間帯になります。
例えば、高知県の高知中央では、暴風域に入る確率が一番高いのは、8月28日(水)未明(0時から3時)で58パーセントです(図2)。
つまり、高知県に台風が最も接近するのは、8月28日(水)未明ということになります。
大きな災害が一番発生しやすい時間帯が未明ですので、四国は前日からの早目の対策が必要です。
また、愛知県に台風が接近するのは28日朝(6時から9時)です。かなり先の話ですので、確率が32パーセントと大きくはありませんが、台風接近とともに値が大きくなる可能性があり、通勤・通学時間帯に影響する可能性があります。
東京も同様です。28日昼過ぎ(12時から15時)に台風が最接近ということになりますが、現時点では、まだ小さな確率です。
最新の気象情報に注意してください。
颱風(台風)と台湾
「台風10号が北上」というように、台風という言葉は、今では盛んに用いられていますが、意外と新しい言葉です。
昭和21年(1946年)12月に当用漢字1850字が決められたため、それまでの「颱(風偏に台)風」から現在使われている台風に変わってはいますが、その颱風も含めて、ほぼ今日の概念で使われるようになってから、約110年という比較的新しい言葉です。
日本で台風(颱風)を 「日本などを襲う強い熱帯低気圧」として取り扱った最初の書は、「気象学講話」といわれています。
これは、後に第4代中央気象台長となった岡田武松氏が、明治41年(1908年)に岩波書店より自費出版した書であり、当時わが国における気象知識の基本となった名著です。
気象学講話の序文には、学問の進歩に従いどんどん改訂しなければならないと書かれており、この言葉通りに、同氏により何回もの改訂が行われ、多くの気象人のレベルアップに貢献した書です。
つまり、颱風という言葉は、岡田武松氏によって明治41年(1908年)に確立されたということができます。
颱風という言葉ができる前は、特に名称はなく、風の強さを示す「颶(風偏に具)風:ぐふう」が主に使われ、「暴風雨」とか、「大風(読みはたいふう)」で表現することもありました。
ただ、岡田武松氏が颱風を採用した経緯については、よくわかっていません。
筆者は、日清戦争後の明治28年(1895年)に、台湾と澎湖島を日本が領有したことに関連して、颱風という言葉も入ってきたのではないかと考えています。
というのは、明治29年(1896年)に設置された台北測候所の初代所長である近藤久次郎氏が、明治32年(1899年)に次のような文を書いていることなどからの推測です。
明治27年(1894年)に始まった日清戦争の結果、台湾と澎湖島を日本が領有することとなり、明治28年(1895年)6月に台湾総督府が設置されています。
そして、翌29年(1896年)8月には台北測候所が設置され、以後、澎湖島、恒春、台中、台南、基隆と次々に測候所が設立され、30年(1897年)9月16日からは、台北測候所において天気予報や暴風警報を発表しています。
近藤久次郎が台湾気象報文を書いたのは、台北測候所において天気予報や暴風警報を発表した2年後ということになります。
ところで、颱という字ですが、古代中国にはなかった字です。
たとえば、現代の辞典の原点ともいわれる『康熙字典』などにも出ていません。
この、『康熙字典』は、中国・清の康熙帝の勅撰によって1716年(享保元年)に編纂された辞典で、4900字が載っており、最初に完成した画引字書(部首に分類して字画で引くという現在の漢和辞典と同じ方式)といわれていますので、ここにないということは、この時点において、主な漢字ではないということになります。
中国で最初に颱風が使われたのは、清国の台湾領有(それまではオランダの植民地)の翌年の1684年(貞享元年)に作られた「福建通志56巻土風志(台湾府)」であるといわれています。
諸説ありますが、颱風は、台湾を新しく所管することになった福建省の役人が船乗りの間で使われた語を、台湾付近の風という意味にとって、領有後に、台と風とを合わせて作った文字というものがあります。
ただ、いずれにしても、近藤久次郎が紹介するまでは、颱風は、台湾や福建省付近のローカル語でした。
台風という言葉の普及
気象台関係者等では、颱風という言葉が、岡田武松氏によって明治41年(1908年)の「気象学講話」で確立されたといっても、多くの人が使いはじめるまでには少し時間がかかっています。
岡田武松の発言が多く取り上げられている朝日新聞で検索すると、明治41年(1908年)8月9日の談話では颶風を使っています。
岡田武松氏が颱風という言葉を新聞記者に使ったのは、気象学講話出版の約4年後のことです。
ただ、岡田武松氏が説明したこと以外の報道については、従前と同じ、颶風が使われていました。
颱風という言葉は、岡田武松氏の努力はあっても、一般へはなかなか普及しませんでした。
それが変わったのは、大正2年(1913年)と3年(1914年)の2年続けて関東地方を襲った颱風によってのようです。
大正2年(1913年)と3年(1914年)の颱風
大正2年(1913年)8月27日に東海から関東地方を台風が襲い、江戸川が氾濫するなど大きな被害が発生した時、颱風という言葉が広く使われました。
大正2年(1913年)の颱風以降、颶風という言葉が全く使わなくなったわけではありませんが、翌3年(1914年)8月13日に、2年連続で関東地方が颱風に襲われて大きな被害が発生し、以後は颱風という言葉が定着しています(図3)。
大正3年(1914年)8月14日の朝日新聞朝刊の見出し
暴風襲来▽市中一巡り/惨憺たる芝浦 大装飾門破壊/市中及付近の被害、倒潰、顛倒、浸水/六郷橋流出す 消防夫押し長さる/魚類と青物 河岸に入荷なし/暴風雨の気象学的観察 本日は好晴なり/京浜間の被害 海水浴場破壊す/十二名溺死す カツオ漁船の転覆/被壊せる芝浦の装飾門
つまり、台風という言葉が広く使われるようになってから、今年は110年ということになります。
「台風と云ふ新語が面白い」
大正3年(1914年)から、台風という言葉が普及したことを示す随筆があります。
日本を代表する歌人・作家である与謝野晶子が書いた「八月十三日」という随筆で、「颱風を新語」と表現していますので、これを書いた大正3年(1914年)において、颱風は「新語」ということになります。
八月十三日。
昨夜は夜通し蒸暑くて寝苦しかつた。夕刊の新聞に台風が東京をも襲ふ筈だと書いてあつたが、夜の十時頃から果してそれらしい風が吹き出した。併し雨はまだ小降であつた。…
台風と云ふ新語が面白い。立秋の日も数日前に過ぎたのであるから、従来の慣用語で云へば此吹降は野分である。野分には俳諧や歌の味はあるが科学の味がない。勿論「野分の又の日こそ甚じう哀れなれ」と清少納言が書いた様な平安朝の奥ゆかしい趣味は今の人にも伝はつて居るから、野分と云ふ雅びた語の面白味を感じないことは無いが、それでは此吹降に就ての自分達の実感の全部を表はすことが不足である。近代の生活には科学が多く背景になつて居る「呂宋を経て紀伊の南岸に上陸し、日本の中部を横断して日本海に出で、更に朝鮮に上陸す」と気象台から電報で警戒せられる暴風雨は、どうしても「台風」と云ふ新しい学語で表はさなければ自分達に満足が出来ないのである。
また、与謝野晶子は、この年の9月22日の読売新聞に颱風についての歌を発表しています。8月13日の台風を大馬に例えた歌です。
「颱風
ああ颱風、初秋の野を越えて 都を襲ふ颱風、汝こそ逞しき大馬の群なれ。
黄銅の背、鉄の脚、黄金の蹄、眼に遠き太陽を掛け、鬣に銀を散らしぬ。…」
与謝野晶子は、台風という新語によって、科学によって情報がでてくる新しい時代を感じたようですが、多くの人も同じ感覚であったのではないかと思います。
台風という新語登場から110年、今では、台風情報の精度向上は眼を見張るものがありますが、その情報は、使って初めて意味が出てくるものです。
台風は、地震や線状降水帯による雨とは違います。必ず南の海から接近し、その状況が刻々とわかりますので、防災活動をとる時間的余裕があります。
台風による被害、特に台風による人的被害は防ぐことができるといわれている所以です。
タイトル画像の出典:ウェザーマップ提供資料に筆者加筆。
図1の出典:ウェザーマップ提供。
図2の出典:気象庁ホームページ。
図3の出典:原典(気象庁「天気図」)、加工(国立情報学研究所「デジタル台風」)。