鄭大世「日本代表への憧れもあった」元北朝鮮代表FWが打ち明けた揺らいだアイデンティティーとW杯
今季で現役引退を表明した鄭大世。カタール・ワールドカップ(W杯)で日本代表がベスト16入りしたことで、盛り上がりも最高潮のなか、「Abema TV」でのW杯解説もツイッターで「鄭大世の解説」がトレンド入りするほど。ピッチの外での活動も本格的に稼働し始めている。
「今は仕事もプライベートみたいな感じで、楽しくやっています。試合の時みたいにすっごく落ち込むもないし、選手とご飯行ったときに色んな愚痴を聞きながら、ほんと引退してよかったなって思いました(笑)」
今まではクラブという組織にいたからこそ、大なり小なり、ストレスにさらされることは容易に想像できる。
「僕、団体行動がめちゃくちゃ苦手なんです。朝からみんなに会う前がすごく憂鬱だったりすることもあるんです。例えば、気が合う人、合わない人がいて、好きな人もいる。自分を支配する監督もいる(笑)。そういうヒエラルキーの中に突っ込んでいかなきゃいけない“ストレス”は今はない。逆に行く先々で、みんなが僕に『お疲れさま』って言ってくれる。テレビに出てもみんなが『テセさん、テセさん』って言ってくれる状況なんで楽しいですよね」
大きなストレスからの解放、そして注目されることが大好きな鄭大世らしい言葉だと思った。今後は日本だけでなく、韓国でも活動範囲を広げる予定で、さらにやりたいことは無限に広がっていくのだろう。ところで今回、聞きたかったのは未来のことではない。かつて代表として活躍した話だ。
W杯出場は初めて勝ち取った“成功体験”
鄭大世にとってのW杯といえば2010年の南アフリカ大会で、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)代表FWとして初出場した。同国は1966年イングランド大会以来、44年ぶり2度目の出場を決めたが、日本で生まれ育った在日コリアンの鄭大世が、本大会出場に大きく貢献した。
「今でも忘れないのは、W杯出場が決まるアジア最終予選、アウェーでのサウジアラビア戦(2009年6月17日)です。最近もその試合をフルゲームで見直したくらい。それくらいサッカー人生で一番うれしかった試合で、喜びの大きさはW杯よりもでかいです。自分の力で夢を叶えたっていう成功体験なので、一つの大きな壁を越えた喜びがありました。思い出しては何日も泣いていましたから」
日本代表にとって1998年フランスに大会の初出場が「ジョホールバルの歓喜」なら、北朝鮮のW杯出場は「リヤド(サウジアラビアの首都)の歓喜」と言っていいだろう。
東京都大学リーグ3部の土のグラウンドでプレーしていた無名の朝鮮大学校サッカー部時代を経てJリーグ入りし、W杯に出るという偉業を成し遂げた。その後はドイツのボーフムやケルンでもプレーするという“成り上がり”の人生を送ってきたが、W杯出場は自分にとっての初めての「タイトル獲得」のようなものだった。
ただ、W杯出場にたどり着く道のりを言葉ですべてを表現するのは難しい。それくらい、たくさんの困難と悩みが大きな壁となって立ちはだかった。在日コリアンである鄭大世がW杯出場を手に入れるまでには様々な葛藤があった。
「精神的な未熟さはあった」
「代表選手」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。その国の代表選手になるには険しい道のりだが、そこに入ればそれなりの待遇が待ちうけている。それこそW杯常連国にもなると、協会にも使える予算もそれなりにある国が多いだろう。ただ、北朝鮮代表はそうではない。それは国の事情と大いに関わってくるのだが、日本や韓国に比べて強化資金が少ないのは容易に想像できる。
Jリーグは世界を見渡しても環境の良さはトップレベルにある。だからこそ鄭大世は、北朝鮮代表入りしたあとの待遇や環境面に苛立ちを覚えることも多かったという。
「大前提として、僕はわがままで自己中心的というのがあります。自分の思いどおりにならない環境に対して愚痴を言っていました。それは精神的な未熟さでもありました(苦笑)」
筆者も北朝鮮代表のこと何度も取材しているが、選手の資質や個人のハードワーク、フィジカル面はアジアでもトップクラスにあるのは間違いない。そう今も確信している。ただ、環境が充実しているとは言い切れない。W杯常連国の日本や韓国を比較対象にするならばなおさらだ。
「当時の話で、どれだけ過酷だったかという話として受け取ってほしい」と前置きをしてこんなエピソードを聞かせてくれた。
「例えばスタジアムに行くときは、常に大きなバッグはパンパンでそれをすべて自分で持ち歩きます。練習は試合で着るユニフォーム。2~3着あるのですが、すべてサイズが違っていて、洗い過ぎて背番号が剥げてたりするのもあったりして。洗うのも自分がやるんです。だから当時はカッコ悪いなって思っていましたよね。ハーフタイムや試合後の栄養補給も十分ではなかったりします。医療系の道具もそうですよね。Jリーグでやっているから恵まれていたんだなって。足りないことを挙げればキリがない」
「ホームだと別人のように強かった」
鄭大世が続ける。
「でも、それって僕が住んでる“日本”が基準になるとそうなるわけで、人間って環境にはすぐ慣れてくる。不満がありながらもチームメイトとはうまくやっていましたし、同じ在日で代表の安英学ヒョンニム(兄)が『それでも頑張ろう』って背中を押してくれて。そんな中で勝ち取ったW杯出場だったので、奇跡としか言いようがないです」
特に驚いたのは平壌でのホームの試合でのパフォーマンスだったという。
「とにかくホームでの試合がめちゃくちゃ強い。もうアウェーとは別人ってくらいに鬼気迫る勢いでゴールに向かうから、同じ人間とは思えないくらいすごい勢いがありましたよ。やっぱりみんなが見ているし、不甲斐ない試合はできない。ただ、そんな中でW杯出場の可能性が見えてきて、みんな試合を重ねるごとにうまくなっていましたから。最後は本当に一つになって勝ち取ったW杯出場でしたね」
環境を整えるのは大事だが、そうでなくても試合に勝つことができるという経験は、これからの人生を生きる上でも大きな糧となる。誇らしげに話す鄭大世の表情を見ていると、筆者も過去の記憶がよみがえるようだった。
「日本代表に心が揺らぐこともあった」
そもそもの話、鄭大世は北朝鮮代表になることを自らの意思で決めている。朝鮮学校で育った環境での影響もあり、それはごく自然の流れだった。一方で、在日コリアンJリーガーのなかには「日本代表」を選択した選手もいる。
在日コリアンの李忠成が日本に帰化して、2008年北京五輪に出場。2011年アジアカップ決勝のオーストラリア戦でのボレーシュートは今も語り草だ。また、今年10月にはサガン鳥栖GK朴一圭が日本国籍を取得し、日本代表を狙っていくと話している。
つまり、鄭大世にも「日本」を選択する余地はあったということだが、改めてそう考えたことがあるのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。
「もちろん、日本代表が華やかで羨ましいとは思っていました。それに(吉田)麻也やウッチー(内田篤人)と仲のいい選手がたくさんいましたしね」
カタールW杯でベスト16入りし、帰国後のファンからの歓声を見れば、サッカー少年の誰もが「いつかこうなりたい」と憧れてもおかしくはないだろう。日本で育ち、Jリーグでプレーしてきた鄭大世もそうした感覚を持っていて当然だ。
もし日本代表FWに鄭大世がいたら――。かつてそんな話をしていた日本のサポーターも多かったと聞く。本人にもそんな声は当然届いていたし、その可能性もあっただけに、「心が揺らぐこともあった」という。
「日本と韓国では代表になれないから?」
さらに鄭大世がこんなエピソードを教えてくれた。
「ドイツのボーフムでプレーしていた時、中国人の女性記者が話をしてきて、『なぜ北朝鮮代表を選んだのか』って言われたので、『自分は子どもの頃からそうなりたかったから』と答えたんです。そしたら、その女性記者が『日本も韓国でも代表になれないと思ったからそっちに行ったんでしょ』みたいなことを言うので、ものすごく失礼なこと聞くなって腹が立ったんです。インタビューもやめてやろうかと思ったのですが、今、考えたら的を得てるんじゃないか、確かにそうだなと思う自分もいて…。だから、もし僕が日本学校のサッカー強豪校に行って、アンダーの代表に入るぐらいのレベルだったら、僕は日本代表目指してたんじゃないのかなって今は思うんですよね」
鄭大世は小学校から大学まで16年間、朝鮮学校に通っているが、もし日本の学校でサッカーを続けて、アンダーカテゴリーの代表入りの可能性があったとしたら、そっちの道を選んでいるかもしれないと言った。“たられば”の話であるが、彼の言葉から分かるのは、すべては育った環境によるところが大きいということだ。
「ただ、仮に僕が『日本』国籍だとして、本当に日本代表になれたかどうかは分からないですけれど、その可能性はあったのかどうかですよね…。あ、岡田(武史)監督だったから多分入れないですね。大学時代に横浜F・マリノスのセレクションを受けて岡田さんから『オフザボールの動きが悪い』って落とされているので(笑)」と笑っていた。
「前人未踏、最高の人生」
確かに2010年南アフリカW杯の日本代表FWの顔ぶれを見れば、その中に入る可能性はあったかもしれない。
「今だから思うことはたくさんあります。シンプルに大きなスポンサー企業がついていて、大企業と財閥系の人たちに会って話ができるのも日本代表。日本の全ての番組にも呼ばれる。目立ちたがり屋の自分なので、そういうことも含めると、正直、日本代表になりたかったなと思うことはあります。それでも僕が選択したのは(北)朝鮮代表でしたし、そこからW杯の舞台に立った。それこそ本大会ではブラジル、コートジボワール、ポルトガルとそれこそ“死のグループ”で強豪と試合ができましたから、こんな幸運なサッカー人生もありません」
上を見ればキリがない。それに鄭大世は町田ゼルビアでの引退会見で「ここまで下から上へ行った選手はいない。前人未踏、最高の人生だった」と振り返っている。
様々な葛藤と人生の選択のなかでも、後悔なく突き進んできた。「日本代表に憧れがあった」とは自然なことで、多くの在日コリアンがそれこそ一度は考える道なのかもしれないし、そんな時代がもう訪れているのだろう。
彼はW杯で北朝鮮代表としての責務を全うしたのは紛れもない事実。南アフリカW杯でブラジルとのグループリーグ初戦で、鄭大世が国歌を聞きながら流した涙のシーンと感情の高ぶりはその象徴だ。
「その涙を今もうまくは説明できないのですが、もうシンプル。涙は感情だから」。この涙こそが、彼が歩んできた道のりのすべてを物語っている。