【深掘り「鎌倉殿の13人」】足立遠元が「13人の合議制」の1人に加えられた理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立し、その1人に足立遠元が加えられた。遠元はいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■足立氏と足立遠元
足立氏はその名が示すとおり、武蔵国足立郡に本拠を置いた武士団である。武蔵国足立郡は、現在の埼玉県北足立郡から東京都足立区にまたがる広大な地域である。足立氏の祖は、藤原遠兼である。遠兼は足立郡を本拠とし、足立を名字とした。
遠元は、遠兼の子として誕生した(生年不詳)。平治元年(1159)の平治の乱においては、源義朝の子・義平(頼朝の兄)に従って出陣したが、残念ながら敗北を喫した。
治承4年(1180)8月、伊豆に流されていた頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、遠元はただちに応じた。同年10月、頼朝が下総国を経て武蔵国に入ると、出迎えるため他の武蔵武士らとともに参上した。
やがて、頼朝が鎌倉に入ると、遠元は本領の武蔵国足立郡を安堵された。これは頼朝が最初に本領を安堵した例といわれており、いかに遠元が信頼されていたかがわかるだろう。また、遠元の娘は、畠山重忠、北条時房の妻になるなどしていた。
■重用された遠元
遠元が頼朝から重用されたのは、文武の才を兼ね備えていたからだろう。遠元は京都大番役を務めた際、京都の文化に慣れ親しんでいた。娘は、藤原光能(後白河院の近臣)の妻だった。頼朝も少年時代を京都で過ごしたので、馬が合ったのかもしれない。
元暦元年(1184)10月、公文所が設置された。公文所とは、文書の保管、政務の処理などを担当する機関である。別当(長官)を務めたのは、大江広元である。
遠元は中原親能、二階堂行政、藤原邦通らとともに、寄人(よりゅうど:職員)を務めた。このなかで東国の豪族は遠元だけなので、いかに行政手腕が評価されたかが理解されよう。
正治元年(1199)に「13人の合議制」が成立すると、遠元もその一員に加わった。これまでの遠元の経歴を見れば、当然のことだったと言えるのかもしれない。
■むすび
遠元が「13人の合議制」に選ばれたのは、文武の才や京都の文化に嗜んでいたことに加え、行政手腕が評価されたからだろう。さらに娘が院近臣や東国の豪族の妻となり、人脈もあったからなのである。