アジア大会金メダルで兵役を免れた孫興民にみる日韓サッカーの未来と国民感情
「言葉にできないほどうれしい」
[ロンドン発]ジャカルタ・アジア大会で9月1日、サッカー男子の決勝が行われました。森保一監督率いる日本は2020年東京五輪世代のU21(21歳以下)で臨み、U23の韓国に延長の末、1-2で敗れ、銀メダルに終わりました。
日韓戦は日本と韓国で異様な盛り上がりを見せますが、この試合には世界中の注目が集まりました。イングランド・プレミアリーグの強豪クラブ、トッテナムで活躍するFW孫興民(ソン・フンミン)の兵役免除がかかっていたからです。
孫興民は昨シーズン全55試合のうち53試合に出場し、18ゴール、11アシストを記録。トッテナムは23年まで5年間、契約を延長したばかりです。アジア大会出場を認めたトッテナムは「ソニー、おめでとう。アジア大会優勝!」とツイート。
U23で臨んだ韓国は、孫興民らがオーバーエイジ枠で出場、ワールドカップ(W杯)ロシア大会代表組の李承佑(イ・スンウ)、黄喜燦(ファン・ヒチャン)の2得点で力の差を示しました。
キャプテンを務めた孫興民は優勝が決まった瞬間、涙を流してチームメートと抱き合い、ピッチ上を転げ回りました。「言葉にできないほどうれしい。今は何も頭に浮かばない」と喜びましたが、兵役免除については多くを語りませんでした。
そこには複雑な韓国の国民感情がうかがえます。
韓国の徴兵制と兵役免除
韓国は憲法で納税・教育・勤労・国防の4大義務を定めており、健康な男子には21~24カ月の兵役(2018年10月時点の韓国国防部HPによると陸軍・海兵隊は21カ月から18カ月に、海軍は23カ月から20カ月に、空軍は24カ月から22カ月に短縮されている)が義務付けられています。
26歳の孫興民は28歳になる前に21カ月間兵役につかねばならず、海外でプレーできるのは来年7月まで。兵役を免除されるためには五輪で3位以上、アジア大会で1位という成績を残さなければなりません。
孫興民は14年W杯ブラジル大会の3試合に出場、1得点。しかし韓国は1次リーグ敗退。同年の仁川アジア大会は、当時所属していたドイツのレバークーゼンが出場を許してくれませんでした。16年リオ五輪は準々決勝で敗退。
今年のW杯ロシア大会でも2得点し、歴史的なドイツ戦での勝利に貢献しましたが、韓国は1次リーグで敗退。孫興民が海外でプレーを続けるためには今回のアジア大会で優勝する必要がありました。
孫興民が所属するトッテナムはプレミア優勝を狙える強豪クラブ。今年11月の国際親善試合と来年1月のアジアカップの2試合を欠場することを条件に、プレミアの開幕試合が終わったあと孫興民をアジア大会に送り出しました。
韓国の中央日報によると、青瓦台(大統領府)の「国民請願」掲示板には今年3月の時点で「孫興民の兵役を免除して」「『孫興民法』を制定して国威宣揚(国の名誉を世界に広げること)に努力した人の兵役負担を減らそう」と孫興民に好意的な意見が多く寄せられていました。
1万2000人以上を対象にした世論調査でも「孫興民の入隊時期を遅らせて選手生活を継続できるようにすべきだ」(44.3%)「兵役を免除すべき」(30.9%)という意見が圧倒的多数を占めたそうです。
兵役逃れは村八分
韓国の陸軍は49万5000人、海軍7万人、海兵隊2万9000人、空軍6万5000人。予備役は450万人です。
米朝首脳会談後も密かに核・ミサイル開発を続けているとみられる北朝鮮と韓国の緊張は続いており、全面戦争という悪夢のシナリオを完全に退けるわけにはいきません。
韓国社会では兵役は国家と国民を守る「聖なる義務」と位置づけられ、一人前の男として認められる通過儀礼になっています。飲み会では必ず兵役時代の思い出が話題になるほどだそうです。
だから、兵役逃れは「反国家的な利敵行為」として軽蔑されてきました。04年11月、日本でも人気を集めていた韓国の俳優ソン・スンホンが腎臓病を装って兵役逃れをしていたことが発覚。押収されたブローカーの顧客名簿を手掛かりに芸能人やプロ野球選手ら50人が摘発されました。
政治家や有力者の息子が地位や権力を乱用して兵役逃れをする例が少なくなく、世間から厳しい目が注がれています。孫興民のように正当な理由がないのに兵役を不当に免れようとすると、1~5年の懲役が科されます。
芸能人は兵役でブランクをつくると、メディアへの露出が減って忘れ去られるかもしれません。プロスポーツ選手はキャリアが中断してしまいます。韓国の若者たちの多くは正当な理由があれば兵役はできれば避けたいと思っているのではないでしょうか。
日韓サッカーの差
アジア大会金メダルで兵役を免れる孫興民も4週間の基礎軍事訓練は受けなければならず、7年間の予備役にも参加する義務があります。
免除されなかった選手たちはプロのKリーグに参加している軍隊か警察のチーム、もしくは一般の軍部隊に入隊すればプレーを続けることができますが、競争率は高いようです。
FIFA(国際サッカー連盟)ランキングは日本55位、韓国57位。東京五輪に向けて若手で臨んだ日本は、兵役免除をかけ死にものぐるいの韓国相手に互角に戦いました。サムライブルーは随分、力をつけたようです。
しかし、兵役免除と「国威宣揚」のために戦うのは選手にとっても、サッカーの発展にとっても決して健全なかたちではありません。それが日韓サッカーの差となって現れています。
ソーシャルメディアでは日本サポーターから「日本が敗けたのは悔しいけど、孫興民おめでとう」という祝福の声が相次ぎました。日本だけでなく世界中のトッテナム・サポーターも韓国のアジア大会優勝を喜びました。
予備役を含めた兵力が500万人を超える韓国と、集団的自衛権の行使を限定的に容認するだけで大騒ぎになる日本とでは国情や国民感情に大きな開きがあります。
平和でなければスポーツを続けることはできません。戦争になると最初に命を差し出すのは若者です。孫興民の兵役免除が世界的なニュースになった背景には世界が分断する中で若者たちが平和を願う思いを孫興民にだぶらせたような気がしてなりません。
(おわり)
参考:「韓国の知られざる兵役義務と免除の仕組み。ソン・フンミンには最後のチャンスと裏技も」(フットボール・チャンネル)