東京の立ち食いそば(大衆そば)のルーツはどこか?それは意外と近い場所?
江戸でそばが大人気になったのはなぜか。そして、太平洋戦争後、東京で立ち食いそば(大衆そば)が大人気になったのはなぜか。そして、東京の立ち食いそばのルーツはどこか?今回はこれらの疑問を中心に考察していきたい。
■江戸でそばが大人気になったのはなぜか
江戸の庶民たちは、現在の埼玉・群馬・栃木・茨城・三多摩・千葉あたりのそばを食べていたようだ。信濃からのそばも入っていたようだが、当時から信濃のそば粉は高価でうまいと珍重されていた。水運で輸送できなかったことも一因にある。
水運で小麦やそばを江戸に集積
当時は水運でそば・小麦・米などを運んでいた。小麦も埼玉・群馬・栃木・茨城・神奈川あたりから集められた。江戸時代は現在と異なり、そば粉より小麦粉の値段が高かった。小麦は年貢の対象作物でもあったし、古くから高貴な食べ物とされていた。
江戸には南海路から樽廻船が上方のくだり物を運び、鰹節などが入荷した。東廻り船で昆布などが入荷し、利根川の高瀬舟は銚子から醤油を運んだ。こうして、江戸にない出汁や返し、つゆが確立していき、そばやうどんを提供できる環境が整っていった。
江戸患いにそばは効果あり
そばは初め生(き)そば、つまりつなぎを使わず打っていた。セイロで蒸して食べたりしていたが、元禄年間(1688~1704)末期頃、つなぎに小麦粉を使うようになると食感が上がりますます人気となった。二八そばが確立され人気になったのもこの頃からである。さらに江戸患い(脚気)にそばが有効だとわかりそばの人気に火が付いた。
江戸そばの粋が先鋭的に人気化
またそば打ち名人などが現れ、つなぎを使わない生(き)そば(生粉打ちそばなどともいう)を打つ達人がそば打ちの腕を競った。流れのそば打ち師が登場しそば店を渡り歩いた。こうした職業は製麺機が町場に広く普及する昭和の中期まで続いた。その間、江戸そばは更科・藪・砂場などの老舗有名店を中心に大いに人気となった。細麺で辛汁が好まれ、ちょいづけが基本など食べる作法も粋が良しとされた。
こうした流れの中で、打つのが難しい十割そばが究極のそばという風潮も生まれていった。江戸そばの技術は独特な発展をとげ、老舗系ばかりではなく、究極の手打ちそばを打つ個人店なども登場し、現在も脈々と受け継がれている。
■東京で立ち食いそば(大衆そば)が大人気になったのはなぜか
ところが、こうした熱狂する江戸のそば文化の発展などどこ吹く風。先鋭的な江戸そばとはまったく別の世界が江戸すぐ近くの周辺地域にあった。埼玉・群馬・栃木・茨城の農作地域では、庶民たちはもっと大らかに小麦粉やそば粉を使って麺食を楽しんでいたのだ。
埼玉・群馬・栃木・茨城は小麦もそばも作られている
この地域では一般的に丘陵畑地帯では小麦を作付け、隣接する山間部ではそばを植えていた。令和4年産作物統計(農水省)をみても、北関東4県は小麦とそばで収穫量20位以内にランクインしている。
埼玉県では熊谷市、美里町、行田市、加須市など県北部中心に小麦が米の裏作や畑地帯で収穫されていた。一方、秩父など県西部山地ではそばが取れた。
群馬県では前橋市、伊勢崎市、太田市、高崎市など県の中央部から東部にかけて小麦が多く作られている。そばは渋川市や県北部などの山地で作られている。
栃木県では県南部の小山市、足利市などの二毛作地帯、県中北部の芳賀町、大田原市などで作られている。そばは鹿沼市、日光市、佐野市などで作られている。
茨城県ではほぼ全域で小麦が作られている。そばは筑西管内の筑西市、桜川市、下妻市などで常陸秋そばが作られている。いずれも隣接した地域で小麦とそばが作られていることがわかる。江戸時代は小麦・そばはもっと広範囲で多く作付けされていたと推測する。
小麦粉にそば粉を入れてつなぎの多い大衆そばを食べていた
6月頃から小麦の収穫がはじまり、夏には新麦のうどんを楽しむ。秋になりそばが収穫されると、小麦粉にそば粉を入れてつなぎの多いそばを食べていた。小麦粉7・そば粉3だったり、同割だったり、その時期の収穫量などに応じて臨機応変に変えたり、その家のしきたりで決まっていた。大抵祝いの席などで食べられ女性陣が打つことが多かった。麺線は包丁切りなので、太く不均一なタイプであった。つまりうどんかそばかといった厳密な区別などあまりなく、季節に合わせて麺を作り食べるという具合である。まさに大衆の麺、大衆そばである。
昭和に北関東出身者が東京へ流入し、食べ慣れたそばうどんを提供
大きく時代が進んで昭和になると、東京へ大勢の地方出身者が流入した。産業の発展に伴い労働者が不足していた。東北地方や北関東からも金の卵たちが上京し、職をみつけて働き、収入を得ていった。
日清・日露戦争後、中国やロシアから大量の安い小麦やそばが輸入され、さらに戦後GHQの政策によってアメリカ産の小麦が大量に流入した。明治大正時代から始まった製粉所や製麺所の発展がさらに加速し、老舗の江戸そば屋だけでなく、大衆そば屋がたくさん誕生していく。
そして、その大衆そば屋や製麺所の経営者の中には埼玉・群馬・栃木・茨城出身者も多かったと推測する。こうした人たちは昔ながらの大らかな、いわば「うどんのようなそばのような麺」を食べ慣れていたので、それを基本に味を作ることになる。実際に立ち食いそば屋の経営者に訊くと、北関東や新潟県・福島県・岩手県などの出身者が多い。
同割のそばなどが立ち食いそば屋に登場し人気に
製麺所では十割そばや二八そばなどに拘ることなく、同割のそばや逆二八のようなそばも市中に出回るようになった。これには戦後の小麦粉が圧倒的に安価で、輸入物であってもそば粉は高く、そば粉を大量に使用すると割に合わないという側面はもちろんあった。しかし、いずれにせよ、そうした大衆そばでも十分うまく、受け入れられたことが大きい。そして高度経済成長の下に、立ち食いそば屋などがたくさん首都圏に誕生し、労働者の胃袋を満たしていったわけである。
つまり、「隣接する地域で小麦とそばが作られていた北関東で昔から食べられていた庶民のそばが、東京の大衆そばのルーツ(原型)である」ということになる。もちろん、麺文化が華開いている岩手県や山形県、また大生産地の北海道なども大いに関連はあるだろうし、上記結論がすべてではない。戦後のらーめんブームも麺文化発展に大きく関与している。最近では押出式製麺機で十割そばを容易に作ることもできるようになっている。そのあたりは今後も随時検証していくつもりである。
埼玉にある大衆そばの代表格「一茶」「一茶宮代」
それでは最後に大衆そばのルーツ的存在の店を紹介しようと思う。
埼玉県南埼玉郡宮代町に2店舗ある「一茶」「一茶宮代」では、包丁切りでうどんのような太さで不揃いのそばを提供している。そば粉はなんと3割だ。しかし、食べればそばの香りが湧き立つうまさである。
先代の女性オーナーが地元の秋の収穫祭で振舞用に作っていたそばがあまりにもうまいと評判になり、店を始めたという経緯を持つ。東京から食べに来た人は「うどんなのかそばなのか分からない」というそうだが、その位大らかな大衆的なそばである。まさに東京の大衆そばのルーツを思わせるそばを提供している。こうした大衆的なそばを提供する店が埼玉・群馬・栃木・茨城ではいまでもいくつか存在している。群馬県太田市の「かどや」、群馬県前橋市の「うどんと蕎麦の田村」、埼玉県久喜市の「えんどう」などは同じような大衆そばを提供している。
こうした地域の遺伝子が、東京の製麺所や立ち食いそば個人店に脈々と流れているように感じられる。
なお追記するが、大衆そばは立ち食いそばより広義な位置づけとして捉えている。また、日本全国の郷土そばも大衆そばに含まれると考えている。そば業界も寿司や天ぷらと同様、老舗系江戸そばを中心とした高級店と大衆店の二極化が今後ますます進むと考えている。また、輸入そば粉小麦粉の暴騰が懸念されている今、多様な大衆そばの世界はその存在意義を再認識されるようになると考えている。
まとめると、そばには老舗や手打ちそば屋を中心とした流麗な江戸そばと小麦粉を大らかに使った立ち食いなどの大衆そばの2つがあることがお分かりいただけたかと思う。近年は押出し式製麺機の登場による十割そばやデンプンを加えたそばなどが登場しているが、まあ、それぞれを生活の場面に合わせて楽しむことがよいのではないかと考えている。
参考文献
「蕎麦通」著者:村瀬忠太郎、編集:坪内祐三、廣済堂文庫 廣済堂ルリエ
「そば物語」著者:植原路郎、井上書房
「うまい!大衆そばの本」著者:坂崎仁紀、スタンダーズ出版
「ちょっとそばでも」著者:坂崎仁紀、廣済堂出版
令和4年産作物統計(農林水産省作物統計)
DK大衆食の旅2