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六文そばの系譜

坂崎仁紀大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト
六文そば神田須田町店(筆者撮影2021/12)

 時代に埋もれる前に大衆そばの記録を残しておきたい。今回は「六文そば」について。今年2024年4月1日、フジテレビ系の深夜番組で「東京ゲソ天ブルース」というドキュメンタリー番組が放映された。大変ステキな番組で、その中に「六文そば」が随所に登場していた。

 「六文そば」は東京の立ち食いそばファン、特にディープなファンなら一度は食べたことがあると思うし、足繫く通っている方も多いと思う。1970年~1980年代に都内で食べ歩いてきた経験からいえば、「富士そば」や「小諸そば」は正統派の立ち食いそば屋であるのに対し、「六文そば」は玄人ウケする実力派そば屋という印象であった。そこで今回は、長年見聞きして調べてきた「六文そば」の系譜を少しだけ紹介しようと思う。

六文そばの歴史の流れ

 まずは六文そばの歴史の流れを下図に掲載する。「六文そば」は1970年頃、F氏が「株式会社そばのスエヒロ」を設立したことからスタートした。1971年に千代田区外神田6丁目の上野末広町にそば店「スエヒロ」を開業する。「六文そば」はその直営店として、同じ頃、1号店が「昌平橋店」として営業を開始した。その後「日本橋三越前店」、「神田須田町店」などが開店して「六文そば」は一気呵成に勢力を広めていった。その後直営店「六文そば」、フランチャイズ店「スエヒロ」として展開していった。

 「六文そば」から独立した「一由そば」の創業者、小森谷守氏に聞いた話では、1970~1980年頃が六文そば全盛期だったという。そば屋以外の経営もしていたというからすごいことである。

六文そばの歴史(筆者作成)
六文そばの歴史(筆者作成)

バブル景気とともにフランチャイズ事業が終了

 しかし、1980年代に入るとバブル経済によって物件の高騰が進み、土地バブルによりフランチャイズ店「スエヒロ」から直営店の「六文そば」に鞍替えが進む。さらにバブル崩壊により撤退を余儀なくされるという状況が続いた。そしてフランチャイズ事業が終了、それぞれ店は独自経営へ移行していった。

2000年頃の状況

 2000年頃は以下のような状況だった。

■S氏を中心とした直営店:神田須田町店、日本橋三越前店、駿河台下店、大門店、八重洲店、中延店、金杉橋店など

■N氏の経営店:人形町店、日暮里1・2店、昌平橋店など

■六文独立店:浜松町店、本郷店、上野店など

■スエヒロ独自営業店:八丁堀スエヒロ、銀座スエヒロなど

 またこの頃、一説によると「六文そば」からスピンアウトした店として、「スタンドそば虎ノ門店」、「スタンドそば岩本町店」、「スタンドそば日本橋店」などが誕生している。現在、千代田区東神田1丁目にある「そば千」があったところで以前営業していた「いとう」もスピンアウトした店といわれているが詳細は定かではない。

六文そば店舗系譜一覧

 調査した営業していた店舗については下表「六文そば店舗系譜」にまとめた。東京近郊で31店舗があったことがわかっている。「東京ゲソ天ブルース」ではもう少し別の店があったとのことである。

 最後に誕生した店は2002年頃、神田小川町にできた「六文そば小川町店」だ。ただし、こちらは半年くらいで閉店した。

 人気店であった「神田昭和通り店」は2008年頃、「日本橋三越前店」は2013年9月にビルの耐震化で閉店した。独立店であった「上野店」は2011年、「本郷店」は2013年、「浜松町店」は2020年にそれぞれ閉店した。また、「銀座スエヒロ」は2015年8月、「昌平橋店」は2020年3月に閉店した。

六文そば店舗系譜(筆者作成)
六文そば店舗系譜(筆者作成)

一由そばは日暮里3号店から独立

 「一由そば」は2008年、「六文そば」から独立して誕生した。「一由そば」の創業者である小森谷守氏は、その後、「一〇そば」を立ち上げ、現経営者とともに「八丁堀スエヒロ」を含めて一由グループとして経営に携わっている。「六文そば」をスピンアウトした店の中では断トツの人気を誇っている。

2024年11月現在の状況

 「神田須田町店」、「金杉橋店」は直営店として営業している。「神田須田町店」には故S氏の二代目が中延店から移動して元気に頑張っている。

 「中延店」は経営主体が別になり独立店として経営中である。「日暮里1.2号店」(2号店は臨時休業中)、「人形町店」は故N氏のグループとして営業している。

 「スタンドそば岩本町」は2023年に閉店した。「スタンドそば」という店は東京から消失したが、その後「STAND SOBA TOKYO」として別資本が営業している。

六文そばの功績

 一時は一大勢力を誇った「六文そば」だが現在は6店舗、「スエヒロ」は1店舗、という状況だ。しかし、立ち食いそば業界に残してきた功績は大きい。箇条書きにまとめてみた。

●寿司のカウンターを応用した天ぷらショーケース

 「六文そば」ではカウンター上のガラスケースに天ぷらが並ぶ。立ち食い寿司で使用されていたものをそば屋に応用した。

●食材としてゲソなどを有効利用し、自家製の天ぷらの種類を増やした

 高級店では扱わないイカゲソを天ぷらにした。東京では最初にゲソ天を始めた店ともいわれている。また、従来は天ぷらはかき揚げ1種類といった店が多かったが、オキアミやちくわ、コロッケ、ピーマン、春菊、紅しょうがなど、たくさんの自家製の天ぷら・揚げ物を用意して、客のニーズの拡大を成功させた。

●自家製の漆黒つゆの定番となった

 「六文そば」のつゆは鰹節ベースだが、特につゆの色が黒く「漆黒つゆ」ともいわれている。東日本地区でも特に濃いつゆであり、働く人たちが欲する味であった。こちらで修業してそば屋を始めたという人も少なからずいるようだ。

●一由そばの誕生

 スピンアウトとした「一由そば」が誕生し大人気店となった。これは世代交代という意味も含めてまだまだ「六文そば」はイケルそば屋であることを実証したといってもよいと思う。もちろん小森谷氏の功績は大きい。

 以上、六文そばの系譜をまとめてみた。寒さが深まるこの時期、湯気の向こうに見える昭和の男達が奮闘し完成させた「六文そば」のアツアツの一杯が喰いたくなるのだ。

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大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト

1959年生。東京理科大学薬学部卒。中学の頃から立ち食いそばに目覚める。広告代理店時代や独立後も各地の大衆そばを実食。その誕生の歴史に興味を持ち調べるようになる。すると蕎麦製法の伝来や産業としての麺文化の発達、明治以降の対国家戦略の中で翻弄される蕎麦粉や小麦粉の動向など、大衆に寄り添う麺文化を知ることになる。現在は立ち食いそばを含む広義の大衆そばの記憶や文化を追う。また派生した麺文化についても鋭意研究中。著作「ちょっとそばでも」(廣済堂出版、2013)、「うまい!大衆そばの本」(スタンダーズ出版、2018)。「文春オンライン」連載中。心に残る大衆そばの味を記していきたい。

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