【光る君へ】藤原伊周のはしゃぎぶりを目にして、不満を抱いた公任、斉信、行成の3人とは
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周のはしゃぎぶりを目にして、公任、斉信、行成の3人がいささか不満を抱いていた。彼らも同じ藤原氏であるが、どのような人物だったのかを考えてみよう。
◎藤原公任(966~1041)
公任は、関白を務めた頼忠の長男である。寛和2年(986)に花山天皇が退位すると、頼忠は関白の座を退いた。一条天皇が即位したので、外祖父の兼家が摂政に就任した。その3年後、頼忠は亡くなったので、公任は後ろ盾を失ったことになる。
以降の公任は処遇に恵まれず、道隆や道長に従うことで、公家社会で命脈を保った。そういうこともあってか、公任は公家社会での栄達を諦め、故実や和歌の世界に身を投じた。私撰集『和漢朗詠集』、故実書『北山抄』は、その代表作の一つといえよう。
◎藤原斉信(967~1035)
斉信は、太政大臣を務めた為光の子として誕生した。斉信は才覚があったので、長徳2年(996)に参議になり、その5年後には権中納言に任官された。これは、兄の誠信を超える昇進だった。誠信は人望がなく、斉信に中納言への申請を止めさせたという。
しかし、道長は斉信の能力を買って昇進させたので、誠信は悶絶死したと伝わっている。寛仁4年(1020)、斉信は大納言に任じられ、彰子、威子の中宮大夫、敦成親王(のち後一条天皇)の東宮大夫を歴任した。斉信は藤原道長に気に入られ、かなり信任が厚かったようである。
◎藤原行成(972~1027)
行成は、右近衛少将を務めた義孝の子として誕生した。祖父は、摂政を務めた伊尹である。叔父の義懐は花山天皇の外戚だったので権勢を振るったが、退位後は出家した。長徳元年(995)、行成は蔵人頭に就任すると、その後は藤原道長の信頼を得て、順調に出世した。
道長の信任が厚かったのは、行成が道長の子の長家を婿として迎えたことから明らかである。行成は、公任、斉信、源俊賢とともに「四納言」と称せられた。また、行成は能書家で、三蹟の1人として知られている(ほかは小野道風、藤原佐理)。