秋葉原通り魔事件(無差別殺傷事件)から10年:私たちの孤独
大量殺人は、孤独と絶望感から生まれる。この「孤独」を私たちは乗り越えられるのだろうか。
■秋葉原通り魔事件から10年
2008年6月8日、秋葉原の繁華街で通り魔事件が発生した。無差別に通行人に襲いかかった加害者男性によって、7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。
逮捕後、加害者男性は、「生活に疲れた」「誰でもいいから殺したかった」「殺すために秋葉原に来た」と述べていた。
「誰でもいいから殺したかった」と語るような人は、特定個人を憎むほどの人間関係も持っていないことが多い。
大量殺人者は、孤独と絶望に心が押しつぶされた人間だ。自分の人生を終わりにし、この世界も終わりにしたいと思ってしまった人間だ。彼は自分が一番の「負け組」だと感じていた。ネットで居場所を見つけたのだが、ネットでもバカにされるようになり、ネットユーザーの集まる秋葉原で事件を起こそうと思ったという。
彼は、ネット上で犯罪予告をしているのだが、実行に到るまで何の反応も得られなかった。のちに彼が語っているのだが、犯行準備の様子をネットに上げながら、もしも誰かが「バカヤロウ」でもいいから語りかけてくれたら、犯行を実行しなかったかもしれないと語っている。
ある犯罪心理学者は述べている。
「殺意のある人に殺人を実行させる方法は、誰もその人に話しかけないことだ」
■彼は一人ではなかったが孤独だった。
「友達ほしい。でもできない なんでかな」。
ネットでそんなことを語っていた彼は、当初は彼はひとりぼっちなのかと思われていた。しかし、のちの報道によると、一緒に酒を飲むような仲間がいたという。一緒に秋葉原に来るような女性もいたという。事件後に、加害者男性が自分は一人だったと語るのを聞いて、では一体自分たちは何だったのかと飲み友達が嘆いたとも報道されている。
山や海で一人でも、孤独とは限らない。大都会で大勢の人に囲まれていても孤独な時はある。むしろ、周囲に大勢の人がいる時ほど、人は孤独を感じる。
孤独感は、人に理解されていない感覚だ。彼は仲間と酒を飲みながらも、理解されている感覚はなかったのかもしれない。
孤独感は、所属感(居場所感)がない感覚だ。居場所とは、心休まる場であり、同時に活躍できる場でもある。彼は自分の人生は高校入学までだったと語っている。その後の人生は、彼にとっては不満足なものだったようだ。そこは自分の本来の居場所ではないと感じていたのかもしれない。
人は、周囲から受け入れられず拒絶されていると感じると、孤独を感じる。彼は、自分を日本最低の男だと思っていたようである。
「勝ち組はみんな死んでしまえ」「そしたら、日本には俺しか残らない あはは」。
心理学の研究によると、人は拒絶され孤独だと感じると、不安が高くなり、抑うつ状態になり、パフォーマンスが下がり、希望を失い、仲間に弱音をはけなくなり、乱暴な行為が出やすくなる。
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし、難しいね」。「やりたいこと・・・殺人 夢・・・ワイドショー独占」。
孤独と絶望の中で、人は最後の大逆転を考えることがある。悪いことをしてでも、みんなに注目されることを。
■私たちと孤独
10年がたち、都市の一極集中はさらに進み、ネット環境はさらに充実した。その中で、私たちの孤独は癒されてきただろうか。むしろ、人が集まり、世界に開かれたネット環境が身近になるほど、孤独は深まっているようにも思う。
イギリスでは、今年「孤独担当大臣」が誕生した。孤独がもたらす経済損失は年間4.9兆円だという。私たち日本の孤独はもっと深刻かもしれない。
私たちは孤独に沈んでいくのだろうか。それとも、孤独を乗り越え、新しい人間関係を作っていけるのだろうか。人は人間関係で傷つき、人間関係で癒されていくのだ。