【富士宮市】江戸時代の女流俳人『雪花亭梅一』の墓を訪れたら、特定するのに試行錯誤することとなった件…
江戸時代に活躍した女流俳人雪花亭梅一は、1804年から1818年頃の黒田村名主中野與十郎の妻で本名を光(みつ)と言いました。
領主の命令で江戸へ出仕する夫に同行した光は松尾芭蕉や小林一茶とも関係する近世俳壇の名門中の名門である葛飾派(其日庵)4代の加藤野逸の下で俳句を学び、『雪花亭梅一』と言う俳号を与えられます。
黒田に戻った後に、『俳諧最初心得之条々』という俳諧入門の心得を執筆し、地域文化の向上に寄与し、富士宮では俳句・短歌といった文化活動が隆盛しました。
富士宮の文化活動を広めた先駆者でもある『雪花亭梅一』の墓が黒田にあると聞いて、訪ねてみる事にしました。
場所は富士宮市黒田小学校前の道路沿い、眞野石油さんの道路を挟んで向かい側にありました。
道路沿いから『雪花亭梅一の墓』と書いてある『歩く博物館』の茶色い看板が見えましたが、枯葉が生い茂り道路沿いからは肝心の時世の句を確認することができません。
看板から少し歩くと墓地へ上がれる階段がありましたが、草が生えていて登りにくいです。
墓地に入ると、歩く博物館の写真と同じ形をした『雪花亭梅一の墓』と思われる形のお墓が4基並んでいました。
年号から推測すると1804年と言えば文化時代なので、刻まれている年号を確認し、文化十一年癸酉年と刻まれている階段側から見て2基目の墓碑が梅一の墓ではないかと推測して、手を合わせました。
富士宮を拠点とした俳句会も多く、平成15年からは毎年『富士山を詠む俳句賞』が開催され、毎年約4000句の投句があるそうです。
「この世は、元々夢のような世界であるから、夢のように儚い世の中を、起きているときに見ている世界に戻してもそこは一面枯野だ」という意味の句「夢の世をゆめに戻して枯野哉」が刻まれているという『雪花亭梅一の墓』。
富士宮の文化活動を広めた先駆者として道路から少し高いこの場所から、できれば枯野ではなく、子どもたちの学ぶ姿、文化の高い今の富士宮を見て欲しいと感じました。
雪花亭梅一の墓
所在地: 静岡県富士宮市黒田285