サッカーにおける「良いプレー」とはなにか?ザッケローニからハリルホジッチで起きる変化
ポゼッションか、カウンターか、という議論の不毛
かつての日本代表監督、アルベルト・ザッケローニは「ボールを持っている」が基本戦略にあった。支配率を高めつつ、能動的に高い位置で攻撃する時間を増やそうとした。それによって攻撃のリターンを多くし、守備のリスクを極力回避する。それに合わせ、センターバックにはボールを持ち運べる今野泰幸が用いられている。センターバックとして今野の身体的インテンシティの低さは明白だったが、チーム戦略の中でキーマンとなっていたのである。
しかし、この戦いはブラジルW杯で大敗を喫した。
あえて大雑把に大別するのであれば、ハビエル・アギーレも、バヒド・ハリルホジッチも、ザッケローニが志向したポゼッション戦術ではなく、その対比にあるカウンター戦術を好む。局面での1対1に勝負をかけつつ、「ボールを持っていない」というのが前提で、奪い返し、相手の陣形にできた綻びをすかさず突き、抉る。リアクションが基本にある。
つまり、日本代表の戦い方はがらりと変わる可能性があるだろう。
では、ポゼッションとカウンター、どちらが正しいのか?
なによりも、実際にプレーするのは選手たちであって、彼らの性質こそが戦い方を変化させていく。当然のことだが、勝者となるにはピッチに立つ選手が良いプレーをせねばならない。
ではそもそも、良いプレーとはどう定めるべきなんだろうか。
最近では、端的に「バルサ」と答える人が一番多いかもしれない。「スペクタクルな内容で、結果も出した」と説明される戦い方は、メッシという不世出の選手のおかげで完全無欠な印象を与える。
しかし、バルサを「良いプレー」=勝者とした場合、例えば2011-12シーズンにチェルシーが欧州の頂点に立ったことは説明が付かなくなる。チェルシーは相手の良さを徹底的に潰し、カウンターから決定力の高いFWがゴールを浴びせるチームで、主体的にパスをつなげるバルサとは対極に位置していた。言わば、「悪いプレー」でバルサを破り、欧州を制したことになる。
しかし勝者であるチェルシーを悪者と貶めるべきなのか?
選手というのは大概、ボールプレーを求める。ほぼ本能的な衝動として。しかし、自分たちより明らかに高い技量を備えたチームと対戦するとき、四つに組んだ勝負を挑めば太刀打ちできないことも肌で知っている。アマチュアならばその散り際も美しいだろうが、プロ選手である以上、勝利を目指ざして戦う度量がなければサラリーをもらう資格がない。
それ故、プロでは戦い方において、「良いプレーも悪いプレーも実は存在しない」と言える。
正解、不正解はどこにもなく、あるとすれば、楽しいか、つまらないかという違いだろう。言うまでもなく、サッカー選手である以上、たいていはボールに触っている方が楽しい。ボールを回す支配感は優越感を意味する。ただその論も絶対的ではない。例えば、守りきったディフェンダーや一発のカウンターを決めたFWにとって、勝利の陶酔もひとしおだというのだ。
享楽の観念とは、きわめて主観的なものである。
ただ一方、「正しい判断、選択でプレーしているかどうか」の点では、良いプレーか悪いプレーか、が確実に存在する。
サッカーは適切な判断と選択、そしてそれを行うスキルの精度に尽きる。相手より早いタイミングでプレーできるか。ヨハン・クライフはジョゼップ・グアルディオラに「お前はダイレクトでプレーすれば敵はいない。しかしツータッチしたら普通。スリータッチ以上なら、私の叔母と変わりはない」と伝えたが、プレースピードが問われ、決断が迫られる。中央で、サイドで、バックラインで、敵バイタルエリアで、選手はいくつかの選択肢の中からやってはいけないことを即座に判断する。例えば同サイドで3度以上同じ選手とパス交換をすれば間合いをつめられ、ボールを奪われる確率が高くなる。
その取捨選択で、ベターもしくはベストの決断をするのが良いプレー、できないと悪いプレーになる。
小さな判断の蓄積が正解の戦いを導き出す---。それこそが勝利につながる。ポゼッションであろうと、カウンターであろうと、そこにフットボールの真理はあるのだ。