結婚して子どもができてもダメな男は変わらない:中村うさぎ氏インタビューを6年ぶりに検証
先月発売された中村うさぎ氏と佐藤優氏による対談『死を笑う』(毎日新聞社)を一気に読んだ。2013年に原因不明の病気で倒れ、心肺停止や呼吸停止に陥った中村氏が語る臨死体験にはリアリティがある。
筆者がいつも中村氏の文章に惹きつけられるのは、借金地獄からデリヘルに至るまでの壮絶な体験から生み出される冷静かつキレイ事抜きの結論である。この新刊にも「あとがき」でこのように書かれていた。
死んだ瞬間、私は真っ暗な「無」に吸い込まれて、そこで何者でもなくなった。私は「私」という意識さえ喪い、絶対的な「無」になったのだ。そして、それを「救済」と感じた。私はようやく、この厄介な「私」という自意識から解放されたのである。(中略)そう、そこで初めて気づくんだよ。私は何者かになろうと必死で生きてきたけれど、本当になりたかったのは「何者でもない」存在だったんだ、と。
天国行きや生まれ変わりではなく、無になって何者でもなくなることを救済と感じる――。恐ろしい結論だけれど、なぜか筆者も救いを感じる。
この社会の中で生きていこうとすると、一般的な幸せや成功、成熟などを意識せざるを得ない。仕事や人間関係の調子がいいときは平気だけれど、ちょっと不調になるとすべてに負い目や焦りを感じて生き辛くなってしまうことがある。
しかし、「あと40年もすれば無に戻れる。そろそろ折り返し地点だ」と思ったら、少しは気が楽になる。今までもいろいろなことがあったけれどなんとかやってこられた。どうせあと半分の人生なのだからできるだけ味わい尽して生きよう、と思えてくる。だからこそ、万人に訪れる死はゴールであり救済なのだ。
ではどうすれば「残りの生を満喫する」ことができるのか。筆者の場合は中村氏のいう「厄介な自意識」と決別できそうにない。そして、この自意識とは常に他者の存在を前提としている。他人とどのような関係を結んでいるのか、どんな風に評価されているのか、他人と比べて自分はどんな状態なのか、などに自意識のあり方が大きく左右されるのだ。
人生において最も密接な関係を結ぶ他者は家族だろう。親兄弟とはやがて別れるので、選び選ばれて新たな家族になる結婚相手が重要になる。一生結婚しなかった場合でも、「いたかもしれない家族」との関係を考えて、生涯独身を貫く自分を見つめることになるはずだ。
2009年の夏に筆者は中村氏にインタビューを行った。テーマは結婚と家族である。当時、筆者は未婚だった。インタビューにかこつけて結婚に対する不安や願望を口にしていたら、「誰かのために生きる気がなくて、自分の好きなように生きるのが大前提なのだから、あなたは結婚には向いていない。でも、失敗覚悟で結婚してみたら?」と勧められた。翌年に本当に結婚し、見事に失敗(離婚)に終わった。
1年半後に再婚して3年が経とうとしている現在、このインタビューでの以下の対話部分を思い出す。
中村 大宮さんはどうして結婚したいの?
大宮 したいのかどうかも分からないんですけど、結婚しないと人として欠落しているような気もするんです。
中村 結婚してもしなくても欠落しているよ。あのね、人はみんな欠落しているの。それぞれ欠落している部分が違うだけ。結婚すれば欠落が埋まって完全体になれるなんて思うところが間違いよ。結婚なんて単なる「型」じゃん。大学に入っても欠落は埋まらないのと同じで、結婚しても人は変わらないよ。
大宮 そうですかね。よく「器が男を作る。課長になったら課長らしくなり、父親になったら父親らしくなる」とか言うじゃないですか。結婚したら立派な大人になれるというのは幻想なんでしょうか。
中村 自覚や役割意識が高まることはあると思うよ。でも、人間の性格は変わらないと思う。無責任な人が結婚して責任感が強くなるなんてことはない。世の中には無責任な人は本当にいて、「責任」という概念がないのよ(笑)。何回結婚して子どもを作っても全く責任を取らない人を私は何人も見てきたから。良い悪いの問題じゃなくて、その人の性格なんだから仕方ない。ダメな男と付き合っている女は「結婚したらこの人は変わってくれるんじゃないか」なんて思うものだけど、無理。直らない。例えば、女癖の悪い人の女癖は直らないのよ。
無責任な人が結婚して責任感が強くなることはない、という指摘の正しさを筆者は今になって痛いほど実感している。友人知人を観察する限り、子どもができても人の性格は大きく変わらないのだとも感じる。
いつまでもダメな自分を嫌いになり過ぎず、朗らかに広々とした気持ちで生きていくにはどうすればいいのか。「自分を知って無理はしない。ただし、できることは精一杯やる」ことしかないように思う。おのれの欠落を認め、結婚相手をはじめとする親しい他者の長所によってその穴を埋めてもらうのだ。そのためには、相手の欠落はできるだけ自分が埋めなければならない。
お互いが欠落を自覚し、それを楽しく補完し合う過程に、社会的動物である人間の「生の喜び」があるのかもしれない。