【九州三国志】島津の雄心、豊臣の圧力!九州制覇を巡る戦火の果て
天正14年(1586年)、九州制覇を目指す島津義久は豊後に侵攻し、戸次川の戦いで豊臣・大友連合軍を撃破。
大友義統を豊前へと追いやり、豊後の大半を占領下に置きました。
一方で、徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は九州征伐を決意し、天正15年1月に動員令を発動。畿内や中国、四国から総勢10万の大軍が九州に進軍したのです。
秀吉の軍勢は豊前・豊後で勢力を増し、肥前の龍造寺氏や諸国の土豪も次々と豊臣方に帰順する中、島津氏は府内から撤退を余儀なくされました。
島津義久は戦線縮小を図りつつも、秀長率いる豊臣軍が日向北部へ侵攻。
3月には松尾城が陥落し、秀長軍は高城を包囲。
高城を救援すべく島津軍は根白坂での決戦に挑んだものの、砦を要塞化した豊臣軍の徹底防備と挟撃により大敗を喫したのです。
根白坂の戦いで敗北した島津軍は、戦力を立て直す間もなく豊臣本隊が九州西部から南下を開始。
薩摩・大隅の家臣も次々と降伏し、島津義久は剃髪して降伏を表明。
5月には義久と兄弟が秀吉に完全降伏し、九州制覇の戦いは終結しました。
その後、薩摩は義久、大隅は義弘、日向の一郡は義弘の子・久保に分配され、島津氏は豊臣政権下で勢力を維持することとなります。
この戦いは、秀吉の九州平定を盤石なものにすると同時に、島津氏が近世大名として存続する契機ともなったのです。