【九州三国志】仏門から戦場へ!長寿院盛淳の生涯と義弘への忠義
長寿院盛淳は、薩摩畠山氏の出身で、幼少時に大乗院で仏門に入り、紀州や高野山で修行を積んだ後、還俗して島津義久の側近として仕えた人物です。
仏僧としての経歴を持ちながら、島津氏の九州統一に貢献し、豊臣秀吉の九州平定時には和睦を主張するなど、外交面での活躍も見せました。
特に筆頭家老として太閤検地に立ち会い、石田三成と協議を重ねながら知行配分を進めたものの、この一連の改革は家臣たちの激しい不満を招き、彼自身も孤立する結果となったのです。
盛淳の名を歴史に刻んだのは、関ヶ原の戦いでの「鳥頭坂の退却戦」です。
島津軍が敵中孤立し絶体絶命の状況に陥ると、盛淳は義弘の影武者となり、拝領した陣羽織と軍配を身につけて敵中突破の盾となりました。
その際、家臣玉林坊に義弘を背負わせ、自身は義弘を名乗り奮戦。彼の命をかけた犠牲によって義弘の生還が叶ったとされます。
盛淳の最期については諸説あり、討死したとも、義弘の名を名乗って切腹したとも伝えられるが、その忠義と献身は敵味方を問わず高く評価されました。
盛淳は中央政権との連携を重視し、石田三成や豊臣政権の要人たちと深い関係を築いていたものの、この姿勢は義久には疎まれ、時に不和を生んだのです。
彼の生涯は、島津家の外交官として、また戦場での忠義者としての二面性を持ち、島津家の歴史に不可欠な一頁を刻んだといえます。