【九州三国志】島津に仕え、日向を治めた智将!戦国の日常を記した記録の名手
天文14年(1545年)、上井薫兼の子として誕生した上井覚兼は、永禄2年(1559年)に元服し、島津貴久に仕えました。
天正2年、肝付兼続の籠る廻城攻めで初陣を果たして以後、日向や大隅の各地で戦功を挙げたのです。
貴久の死後は義久の側近として仕え、天正4年(1576年)からは老中に任じられ、島津氏の政務を取り仕切る重要な役割を担いました。
さらに、日向地頭職に任ぜられると、行政面でも卓越した手腕を発揮し、実質的に日向一国を任されるまでに至ったのです。
覚兼はまた、文化人としても名を残しました。
天正12年(1584年)には島津義弘から金瘡医術を伝授され、その秘伝書を与えられたほか、有馬晴信から贈られた南蛮犬を義久に献上するなど、教養豊かな一面を見せたのです。
この南蛮犬の珍しさから見物人が押し寄せる騒ぎとなったといいます。
天正15年(1587年)、豊臣秀長との戦いに敗れた後、覚兼は伊集院地頭職に任じられ隠棲しました。
その地で病没したものの、彼が記した『上井覚兼日記』や『伊勢守心得書』は、島津家の政策や信仰生活を伝える貴重な史料として後世に残されています。
覚兼は智将であると同時に、戦国時代の「日常」を記録した文化人としても評価されています。