【九州三国志】鉄砲伝来が切り開いた未来!種子島三代、戦国の荒波を越えて
種子島恵時は、文亀3年(1503年)に生まれ、島津貴久に仕えた武将です。
天文7年(1538年)の加世田城攻めや翌年の市来城攻めで活躍し、貴久方の一翼を担いました。
しかし、禰寝氏との争いが激化し、一時は屋久島に逃れるも、天文13年(1543年)に反撃を仕掛け、種子島を奪還します。
これにより恵時の時代に種子島氏の地位は揺るぎないものとなりました。
この年、種子島に鉄砲が伝来し、恵時の子・時尭がこれを手に入れることで、戦国史に大きな転機をもたらしたのです。
時尭は鉄砲伝来の年、わずか16歳ながら鉄砲の威力に驚き、二挺を購入。
このうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に与え、国産化を命じた結果、日本で初の国産銃が誕生したのです。
以降、「種子島銃」として広く普及し、戦国の戦場に革命をもたらしました。
また、時尭は島津氏との婚姻関係を通じて島津義久と深く結びつき、家中での地位を固めたものの、禰寝氏との関係に悩まされる一面もあったのです。
時尭は永禄3年(1560年)に家督を長男・時次に譲るも、その早世により復帰。
晩年は次男・久時が後を継ぎました。
久時は第16代島主として、島津義久から「久」の字を与えられ元服。
戦場では沖田畷の戦いや小田原征伐、文禄・慶長の役に参戦し、特に鉄砲術に優れた活躍を見せたのです。
鉄砲200挺を豊臣秀吉に献上し、名声を高めた久時は、戦場での武名と種子島銃の技術をもって島津軍の要として貢献します。
慶長16年(1612年)に44歳で死去するも、側室の子・忠時が後を継ぎ、種子島の血筋は続きました。
三代にわたる種子島氏の軌跡は、鉄砲伝来という歴史の転換点を背負い、戦国の嵐を越えた物語として語り継がれています。