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【九州三国志】山田有信・有栄、二代に渡る島津家への献身

華盛頓Webライター
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薩摩山田氏は文治年間、武蔵有国の子・有貫が日置郡山田に居を定めたことに始まり、代々島津家に仕えました。

有信は幼少から島津貴久の側近となり、その後義久のもとで地頭や軍役を務めたのです。

高城の城主に任じられた有信は、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいてわずか300の兵で籠城し、大軍を足止めして島津軍の勝利を支えました

さらに天正15年(1587年)、豊臣秀長の軍が押し寄せた九州平定戦でも再び300の兵とともに高城に籠り、降伏勧告を退け続けます

最終的に主君義久の説得で降伏し、人質として息子・有栄を差し出したものの、義久への忠義を尽くしたその姿勢は島津家中で深く称賛されました。

有信の死後、義久が棺の前で焼香を行った逸話は、その忠義の深さを物語ります。

一方、父の意思を受け継いだ有栄は、幼少期に人質となった後、武将としての才を開花させました。

文禄・慶長の役では朝鮮で武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは島津義弘を守り抜くという大役を果たしたのです。

戦いの最中、村人への礼を尽くすため自らの刀を置いて去るといった逸話は有栄の器量を物語ります。

帰国後は家老職に任じられ、「出水兵児」の礎を築き、家臣教育や産業開発にも尽力しました。

晩年には島原の乱における総大将として出陣し、その軍才を遺憾なく発揮しています。

父の忠義と子の才覚が織り成す山田家の軌跡は、島津家の歴史に欠かせない章として刻まれているのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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